2012年11月30日

デカルト解釈の嘘

よくデカルトの「我思う、ゆえに我あり」という標語を持ち出して、これにより西洋は近代的自我に目覚めたという解釈に出会う。そして日本は西洋思想が入ってくるまで個人がなく、島国根性で村八分文化がある野蛮な遅れた文化圏だったという結論へとさりげなく誘導する。さらには、その遅れた村八分文化が全体主義を招いて悲惨な戦争を引き起こしたという。日本は加害者だそうである。

ウソだ。

なぜなら、デカルト思想は近代的自我を目覚めさせるようなものでは全くなく、むしろ全体主義を招きうる思想と解すべきだからだ。西洋近代思想こそ、その本質は全体主義であり、近代法思想に基づいて構成された近代国民国家こそ全体主義を招いた最大の原因である。日本が全体主義化したのは、日本文化が野蛮だったからではなく、むしろ維新により輸入した近代法システムが野蛮だったと評価するほうが妥当だ。

根本的誤解として、デカルトはあらゆるものを徹底的に疑った結果、疑いえない「我」の存在を発見したという解釈がある。それは誤りだ。徹底的に疑った結果、疑いえないとデカルトが考えたものは、「我」ではなく「疑っている」という懐疑運動そのものである。疑っているときの「疑っている」という理性の運動こそデカルトが発見した絶対明証な知の基盤である。そして重要なのは、この運動をもたらす理性は個人特有のものではなく、絶対神から全ての人間にあまねく付与された借りものにすぎないとした点だ。哲学者の木田元氏はデカルトの理性を「神の理性の派出所」という絶妙な表現でとらえている。デカルトが発見した理性は神のものであり、個人が独占できるものではない。この思想のどこに個人の目覚めがあるというのか。理性によってみんながあまねく同じ認識をできるものだけが真であり、各個人独特の個性ある認識は偽なのである。様々な解釈が可能な一般言語で表現された多様な認識は全て偽であり、たった一つの解釈しか演繹できない数の論理で記述できることだけが真なのである。デカルトを全体主義の嚆矢といわずしてなんというのか。

いやデカルトではなくカントこそ人間の自由の思想的基盤をつくったのだというかもしれない。しかしカント思想だって多分に全体主義的だ。純粋理性批判においてカントは、デカルトの理性による認識に限界があることを示したが、返す刀で理性による実践の真性を主張した。人間はこの宇宙を正しく認識することはできないが、だからこそ認識に縛られず正しいことを実践できるというのだ。なぜなら実践理性は神とつながっているからだそうである。この思想のどこに個人の自由があるというのか。「自由」の定義は色々あると反論を受けそうだが、少なくとも個人特有の偶有的な行動規範の真性は排除されている。種としての人間が自然からは自由であると説いただけで、やっぱり絶対神が正しいとすることが正しいことに変わりはないのだ。これって全体主義でしょうに。

結局、西洋が個人に目覚めた思想文化を育んだと評価できるのは「神は死んだ」と主張したニーチェ時代の到来を待つしかないのである。それはもう20世紀に足を突っ込んでいる時代であり、日本はとっくに開国して西洋化を邁進している最中である。西洋の全体主義文化に育まれた成果としての法制度と知的土壌を導入して。

西洋文化と歴史は個を重んじて、日本文化と歴史は個を重んじない?西洋は進んでいて日本は野蛮?この主張がいかにバカバカしいか。西洋思想史をきちんと理解すればよく分かる。西洋思想は優れているから学ぶのではなく、騙されないために西洋思想を学ぶ必要があるのだ。



タグ:デカルト
web拍手 by FC2
posted by あれるげん at 13:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | デカルト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。