2012年12月18日

岩井貨幣論の害悪

経済学者の岩井克人さんは、その著書「ヴェニスの商人の資本論」におさめられた論文「はじめの贈与と交換市場」の中でおかしな貨幣論を展開している。岩井さんによると貨幣のはじまりには「一方的贈与」があるという。現在の中央銀行システムに即して言うと、中央銀行は中央銀行券における負債を中央銀行券で返済すればよいから、実質的に負債はない。だから、そこには国民から中央銀行への「一方的贈与」があるんだそうな。

しかし、この論理には時間の概念が全く欠落している。中央銀行券とは、中央銀行を国家と個人の間に噛ませることで、未来の国民の納税義務に対する権利に流動性を付与して現在化する法技術であって、立派な双務契約の産物だ。中央銀行は、他の銀行と同じく時間を商品としている消費貸借契約者なのであって、贈与などという片務契約の当事者では決してない。

岩井貨幣論に立脚した経済学説は、紙幣を片務契約の産物とすることで、金融と実体経済のの関係性をぶった切っている。金融と実体経済のつながりは「はじめの贈与」だけ。その後は、金融は金融で実体経済と無関係に語ること自由自在だ。

経済学部の一般教養科目として民法と手形小切手法と憲法を必修と位置付けなければ、世界中でトンデモ経済学者が量産され続けることになってしまう。数学ができない経済学者がいても、それはそれで独自の視点を提供できるかもしれないが、近代法を知らない経済学者はただの害悪でしかない。


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2012年12月15日

縦のものを横にしたすごさ

以前の記事でデカルトは近代的自我を目覚めさせたわけではないと主張した。(デカルト解釈の嘘http://judgethinkwill.seesaa.net/article/304515808.html)では、デカルトの何がすごいのか。それは縦の西洋思想を横にした点がすごいのだと思う。

かつて、中世神学においては天界の法則と地上の法則は別のもので、地上の人間が天界について知るにはただ「信仰」によってのみだった。そして理性はただ地上の事柄を把握するのみだった。それをデカルトは天界と地上の二分法でなく、精神(理性運動)と延長(物質)の二分法を採用し、かすがいとして神の理性を置いた。中世の二分法をつなぐのは信仰だったが、近代の二分法をつなぐのは神から人間に貸与された理性だ。かつて「信仰」が占めていた地位に「理性」を就任させたわけだ。ここがデカルトのすごさであり新しさだ。これにより、天界の法則と地上の法則は同じものというのがコモンセンスとなり、なぜ地上のリンゴは落ちてくるのに、天界の月は落ちてこないのかというニュートンの疑問につながった。

ただ、枠組みとしての二分法は変わっていない。そして「理性」はあくまで人間に貸与された「神の理性」だ。人間は神の奴隷のままである。

この二分法を解消して、自我に中心を定めて考える視点を置くには、神を殺す必要がある。だから自我を重視する思想はどうしても「神は死んだ」ニーチェ時代の到来を待たなければならない。20世紀に差し掛かるまで、西洋には個人を尊重する思想などかけらもあるはずないのだ。騙されてはいけない。

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2012年12月11日

時代は変わった?

よくIT革命によって時代は変わったという。それは一種の産業革命であると。インターネットで生産者と最終消費者が直接つながって中間卸が縮小したり、アナログな手作りで作ってきたものがデジタルで容易に作れるようになったり、知的な情報にアクセスするのが無料で出来るようになったり。確かに時代の変化はあり、情報化によって隆盛する新産業もあれば、衰退する産業も出てきている。経済の仕組みは大きく変わった。しかし、だからといって政治が大きく変わるほどの変化が起きていると言えるのだろうか。革命や維新というほどドラスティックな社会の仕組みの変化が起きているのだろうか。イギリスで起きた産業革命のとき、経済の仕組みは大いに変化した。だがそれと連動して政治の仕組に革命が起きているだろうか?

いや起きていないのだ。政治革命は産業革命より先に起きている。産業革命の前も後も、政治の仕組みは近代立憲国家、近代国民国家という枠組みで動いている。何も変わっていない。鉄道や蒸気船という技術により世界が急激に狭くなって、人々の交流が活発化しても、近代国家という大きな枠組みは変わらず耐えた。

なぜか?それは経済を支える通貨の仕組が近代国家の存在に依存しているからだ。近代国家なくして通貨なく、通貨なくして経済はない。特に遠隔地との取引ならばなおさらだ。かさばる金貨では決済手段として役に立たない。どうしても紙幣が必要になる。そして紙幣に信用を与えるには近代国家を噛ませるしかない。

信用ある紙幣として人類は中央銀行券という仕組みを開発した。(詳しくは日銀券の革新性をどうぞhttp://judgethinkwill.seesaa.net/article/283045091.html)国民国家の国債を対価に噛ませることで、信用ある流動性をもった万能債権証書を生み出した。これにより商人たちは国民国家の労働力を背景にした信用ある決済手段を手に入れ、遠隔地との取引をスムーズに行ったのだ。産業革命期の経済のドラスティックな拡大もこの決済手段なくして出来なかったし、何より産業を支える労働力を引き出すことはできなかった。

中央銀行券が生まれて以来、近代国民国家と中央銀行券のコンボによる流通システムに組み込まれた経済圏は常にバブルによる好景気と信用収縮による不景気の波に翻弄され続けている。やれジュグラー波だのコンドラチェフ波だのと。なぜなら、中央銀行券は国債を種火とした債権であり債務だからだ。債務なきところに債権なく、債務なきところに通貨はない。バブルという熱狂により無茶な債務を負わせて通貨を創造すれば、マネーは増加し景気はよくなるし、バブルがはじけて信用と自信が収縮すれば、誰も債務を負わないから通貨は創造されず景気は悪化する。根拠はないが作為的に作られた自信と、嘘が表沙汰になることでやってくる過度な自信喪失。このすさまじいメリーゴーランドにさいなまれ続けている。

近代以降の産業を支えている労働力は、国債による債務と金融機関を通して創られた債務である。根拠なきバブルの熱狂と自信によって創造された消費貸借契約がマネーを生み出し、需要の欲を生み出し、供給のための労働力を生み出す。根拠なき熱狂なきところに好景気はない。そして根拠なき熱狂は作為的に創られる。

通貨を創造するには中央銀行の輪転機を回すだけではとても足りない。+αが絶対に必要だ。通貨を主に作り上げているのは中央銀行ではない。そこで創られるのは種火にすぎない。メインディッシュは契約だ。金融機関を通じた長期の消費貸借契約。未来数十年にわたって個々人が負担する債務だ。個の債務は契約時に突然発生する。十年以上にわたる債務が債権として突然現在に発生し通貨という債権になり現在において価値をもつ。流動性という価値を。すさまじきは債権譲渡自由の原則!。恐ろしきゲルマン民法!債務!債務!債務!長期ローン!長期ローン!長期ローン!これこそが通貨であり、これなくしてマネーはない。個々人が長期ローンを組むような政策(騙し)なくしてマネーは増えず好景気はない。根拠なき熱狂は個人(法人含む)が長期ローンを組むような自信(雇用)と商品が必要だ。

現代に置いて長期ローンを組んで手に入れる商品は限られている。それは住宅(不動産)と車だ。サブプライムローンによるアメリカバブルも商品は住宅だったし、中国経済の熱狂もそれを支えていたのは住宅と車だ。国民が住宅と車のため強気に長期ローンを組んでいる国こそ、現代に置いて内需が活発な好景気な国である。裏返せば、返せるかどうか分からなくても、国民に住宅と車をローンを組ませて購入させる施策なくして好景気はない。国民に自信をつけさせる安定した雇用を穴を掘って埋めてでも作り出し、金融市場の自由化によって、債権譲渡を簡単にすることで、低所得層にも長期ローンを組めるような、銀行が貸し出しやすい仕組みを作りだす。日本の場合は担保となる土地の値上がり神話もほしい。このような騙しの施策なくしてマネーは生まれず好景気はやってこない。

健全な金融やクリーンな騙しの無い政治、嘘の無い政治では通貨は生まれない。ゆえに好景気もやってこない。時代は変わった?いや、まったく変わっていない。すさまじき近代国民国家と中央銀行券というシステムが生まれて以来、何も変わっていない。このおかしな仕組を乗り越えたいならば、近代国民国家に代わる国家の仕組みと中央銀行券に代わる通貨システムを考案しなければならない。そして初めて新時代を主張できる。そんな代案なくして革命や維新を叫ぶとしたら、それは幼稚なおままごとである。何も変わりはしない。

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posted by あれるげん at 15:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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