2013年01月26日

アトピー克服に有用な書籍

筆者が食事療法でアトピーを克服する際に有用だった書籍または克服後に出版されたが役立つに違いないと思われる書籍を列挙してみました。参考にしてください。

0奥山治美『本当は危ない植物油』角川oneテーマ21
植物油の危険性をいち早く見抜いた奥山先生の本。先生の研究がなければ永田さんも治療法を確立できなかっただろうし、私も重度のアトピーで今もって苦しみもがいているに違いない。ひょっとしたら生きていないかも。まさに命の恩人と言って過言ではない。そんな私にとって神様のごとき先生のご見解がシンプルにまとめられた一冊。アトピー患者に限らず必携!


1永田良隆『油を断てばアトピーはここまで治る』三笠書房
アトピーの原因は「植物油脂の過剰」と「たんぱく質の消化不良」であることを主張。この本との出会いなくして私のアトピー克服はなかった。ただ、快方とともに食べられるものが増えていくとおっしゃっているが、先生の主張はやや甘いように思う。アトピーが消えても植物油脂は摂取すべきではない。揚げ物や炒め物は治った後も食べるべきではない。


2浜崎智仁『コレステロール値が高いほうがずっと長生きできる』講談社+アルファ新書
はっきりと植物油脂は人体に不要と言い切っておられる。植物油脂を完全に断つ勇気をいただいた。


3三石巌『医学常識はウソだらけ』『脳細胞は甦る』祥伝社黄金文庫
医学は科学的成果の積み重ねでできているという幻想を打ち砕いてくれる。特に疫学的主張には要注意だ!卵が栄養価(プロテインスコア)として完璧と押しまくっている。卵が消化できない私としては少しくやしい。だがシジミやサンマも卵に負けず劣らず優秀なスーパーフードであることも分かる。




4市毛嘉彦『信じてはいけない「統計的に正しい」こと』幻冬舎ルネッサンス
相関関係と因果関係をしっかりと区別しよう!信頼できる医学情報か否かを判断する道具を提供してくれる教養書。


5生田哲『食べ物を変えれば脳が変わる』PHP新書
食事療法でアトピーを治せば、頭脳も変わる!?脳に良いことは体に良いことでもあるのだ!


6松生恒夫『腸はぜったい冷やすな!』光文社新書
野菜は生野菜より温野菜の方がよい!その理由は…


7吉田たかよし『元素周期表で世界はすべて読み解ける』光文社新書
周期表に関する本は数多く出版されているが、医者が語る周期表論はこの本だけだろう。水銀がなぜ毒なのか?セシウムやストロンチウムが放射性物質の中で最も恐れられているのはなぜか?周期表を見れば一目瞭然なのだ!国会議事堂型周期表には目からうろこ!青魚中心の食生活で水銀や放射能が怖い人へ考える基盤を提供してくれる。


8新谷弘実『病気にならない生き方』サンマーク文庫
ご存じ牛乳ヨーグルト神話に疑問を投げかけた話題の書。是非はともかくアトピー罹患者はだいたい乳製品の消化不良を起こしているので、牛乳やヨーグルトは避けるべきだろう。避けても栄養価が足りなくなることはないと自信を持たせてくれる。


9牧田善二『糖尿病はご飯よりステーキを食べなさい』講談社+アルファ新書
アトピーとはあまり関係ないけど(意外に深くかかわっているかもしれない)、糖尿病リスクは万人が若いうちから気にかけるべきことを教えてくれる。アトピー克服のために食事療法をすると、ついつい炭水化物過多になりがちなので、戒めのためにも読んでおきたい。


10藤澤重樹『アトピー治療革命』永岡書店
ステロイドを安易に肯定したり否定したりせず、総合的に長所と短所が確認できる。医学界のアトピー標準療法に凝り固まっていない医者が書いたアトピー治療法カタログ


11後藤眞『老化は治せる』集英社新書
老化とは炎症である。炎症は生命活動をする上で避けては通れないものではあるが、必要以上の炎症は老化を促進させるだけである。植物油脂による炎症はアトピーだけでなく老化を促進させる。いかに炎症を防ぐかという視点は健康に生きていくために不可欠な視点であることが良く分かる。


12山嶋哲盛『サラダ油が脳を殺す』河出書房新社
サラダ油による炎症の危険性を啓発している。特に神経細胞への悪影響を力説。アトピーであろうとなかろうと植物油脂の大半は摂取すべきではないのだ。どんな油を日々摂取するかで人生が決まる。


13ウィリアム=デイビス『小麦は食べるな』日本文芸社
近年、遺伝子組み換えは問題にするくせに、今まで行われた無理やりな交配による品種改良は問題ないというのはおかしい。今、世界に流通している小麦は品種改良によって、人類が長年食べてきた小麦とは全く違うものになっている。たんぱく質が変化し、我々はその消化に対応できていない。だからアレルギーを引き起こす。納得。





タグ:アトピー本
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2013年01月21日

金兌換券思考

かつてブレトンウッズ体制(金本位制)だった時代、ドルは金と兌換できるはずだった。だが、兌換は各国の通貨当局に限定されていて、国民は金兌換をしてもらえなかった。なぜか。考えると中央銀行券の性質が見えてくる。

もともと中央銀行券は一民間金融機関が発行していた金兌換券だ。金貨や金塊を預る代わりに金兌換券を所有者に対して発行していた。商人たちは金貨や金塊で決済するより金兌換券で決済する方が圧倒的に便利だったので、みんな自分の金貨や金塊を金融業者に預けて金兌換券を受け取り、それを決済手段として利用した。ただの金兌換券に流動性が生まれた。

この金兌換券は約束手形に近い。約束手形は振出人と支払人が同一だ。振出人は未来の自分に債務を負わせるために手形を振出す。金融機関は未来において自分自身が金兌換義務を負担することを宣言して金兌換券を振出す。兌換券の所持人は転々とする。まさに約束手形そのものだ。

しかし、金兌換券を発行していた金融機関が近代国家と契約を結ぶと、この紙切れの性質が一変する。近代国家は戦争がしたい。戦費調達のために大量のお金が必要だ。そのために、決済手段として流通していた金兌換券に目をつけた。近代国家の国債を金貨がため込まれている金融機関に引き受けさせ、その対価に金兌換券を発行させた。敗戦によるデフォルトリスクを負担する見返りとして金融機関に国家の通貨発行権を譲渡した。金兌換券は通貨となって国家の戦費を支えた。国債が金融機関を通すことで流動性ある通貨に早変わりだ。金貨ではないが、金貨と交換できる紙切れを通貨とすることで、決済手段としての信用を失うことなく大量の紙幣が発行され、国家の戦費を賄うことに成功した。この国家のお墨付きを得た金兌換券は、もはや約束手形ではない。為替手形にその性質を変えている。

為替手形は振出人と支払人が別人である。もともと振出人は支払人に債権をもっている。とすると振出人は支払人にその債務履行を手形の所持人に対して行うよう指示した手形を振出すことができる。支払人は所持人に債務を履行することで、振出人に対する債務をチャラにしてもらえる。振出人は支払人に対する債権を所持人へ譲渡したに等しい。

さて国家と契約した金融機関は、金兌換券を発行する対価に金貨でなく国債を引き受けている。これは金融機関が国家を介して納税者たる国民を債務者とする債権を獲得したことと実質同じだとみなせる。ならば、この金兌換券は「金融機関が国民に対して有する債権を金兌換券の所持人へ譲渡した為替手形」として発行することができる。金融機関が国家から通貨発行権を譲渡されたことが金融機関の意思を物語る。なにも書かれてないけど支払人は国民なんですよという意思を。

しかも、支払人たる国民は、指示通り金兌換券所持者に対し債務を履行したとしても、よせばいいのに(笑)見返りとして金兌換券を受け取ってしまう。普通の為替手形だったら、もはや何の権利も主張できないただの紙切れであり、元支払人は悪用されないように破り捨てるだけだ。しかし、この金兌換券は国家お墨付きの通貨なのだ。しかも支払人は抽象的で無個性な国民である。国民を支払人とする為替手形として有効性を失うことなく存続する。受け取った時点で支払人たる国民は金兌換券の所持人に早変わりだ。そして元支払人が元所持人に対して行った債務履行は有効な金兌換券をもらうという行為によって相殺されてしまう。だから元支払人が国民として金融機関に負っていた債務は消えることなく残ったままだ。こうして国民が金融機関に負った債務は消えることなく、為替手形モドキの金兌換券は通貨として有効性をもちながら所持人を転々とさせ経済を回す。

では金兌換券の金兌換義務とは一体何なのだろう。なにせこの金兌換券の支払人は国民だ。為替手形モドキなんだから振出人たる金融機関が義務を負うわけない。債務者はあくまで国民である。しかし金兌換券として発行している。ならば考えられる可能性は金兌換義務は担保なんだというしかない。振出人たる金融機関は、この為替手形モドキに信用を付与する物上保証人なのだ。

保証人は連帯保証契約を結ばない限り補充性を有する。自分より先に主債務者に対して履行請求するよう抗弁したり、主債務者の資力を立証してそちらを先に充当するように抗弁して債務履行を逃れることができる。金兌換券の物上保証人たる金融機関も当然抗弁権をもつ。国民に先に請求しろ。国民の資産を先に充当に当てろ。そう抗弁できる立場にあるのだ。

かくして、ブレトンウッズ体制下で、ドルの所持人がFRBにたいして金兌換請求をしても兌換してもらえない理由に到達した。FRBは所持人に対していくらでも抗弁できるのだ。先に国民に請求しろよ。先に国民の資産をもって充当しろよと。

金兌換通貨の兌換性はただの担保にすぎない。付随的権利に過ぎなかった。だから気楽に脱着できるのだ。ニクソンショックのように。一方、国債を対価に金兌換券を発行するという仕組みは排斥できない。国債を保有してこそ中央銀行は国民に支払を指示できるからだ。よく日銀が国債を対価に日銀券を発行する理由について、国債が一番の安全資産だからという言説を聞く。それも理由の一端かもしれないが、中央銀行券の本質をつけてない理由づけだ。国債保有こそ通貨発券銀行としての中央銀行の本質なのだ。

確かに国債を対価に日銀券を発行していない時代もあった。しかしその時の日銀は真の中央銀行でなかったのだ。それは市民法秩序下に通貨を位置づけられていなかったことを意味している。公法を私法で抑え切れていなかったことを意味している。「法の支配」が貫徹できていなかったことを意味している。自由が実現できていなかったことを意味しているのだ。私法秩序下に国家を従わせるために、国家を債権債務関係に巻き込んだ。国債を通貨の合わせ鏡にすることで、公法を私法秩序下に叩き込む土壌を作り上げた。それは皮肉にも国家なくして自由は実現できないことを意味していた。アナーキストにとっては訃報であろう。

一般には中央銀行券は法貨ゆえに通貨なのだと理解されている。日銀法という公法(行政法)によって強制的に通貨となっていると。しかし、それは中央銀行券の一面でしかない。国債を対価に日銀券が発行されている以上、為替手形かつ法貨であることを見抜かないと、現在の紙幣経済を誤って理解することになる。

通貨を貨幣から紙幣に変えた時点で、市場には純粋な個人などいなくなっている。市場のプレイヤーはデフォルト値からして「個人かつ国民」である。まるで光が「粒子かつ波」であるかのごとく、具体と抽象が同居している。法律論から見れば「ミクロ的基礎付け」など夢のまた夢であることが分かる。ミクロ経済学が前提とする純粋な個人など市場には一人もいない。個人は国民という制約の下で、予想通りに不合理に行動する。必要なのは、ミクロ経済学のマクロ的基礎付け、否、経済学の政治学的基礎付け、法学的基礎付けだ。経済学は政治学や法学のはしためであり、独立したディシプリンではあり得ない。さよならマンキュー。さよならルーカス。 web拍手 by FC2
posted by あれるげん at 23:57 | Comment(1) | TrackBack(0) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月16日

紙幣思考

紙幣とは何か?なぜ金貨や銀貨でなくただの紙切れの方が通貨として通用しているのか?一度徹底的に考えてみるべきだろう。紙幣は便利だ。金貨や銀貨のようにかさばらないから持ち運びも便利だし、管理も簡単だ。遠隔地に出向いて取引する商人にとってこの上なく便利だ。だから手形が発達した。手形はやがて通用力ある紙幣に発達した。それで納得して思考停止してはいないか?

金貨より紙幣が重宝がられた最大の理由は管理の簡易性ではないと思う。それは希少性からの脱却だ。交換価値がつくものには必ず希少性がある。語るまでもなく当たり前の話だ。希少性なきものを交換するバカはいない。酸素は生命維持に必要だが、希少性はない。みんな当たり前に手に入れられる。大切ではあっても交換価値は生まれない。希少性は交換されるものが当然に備えるべき必要条件である。通貨にも当然に希少性が求められた。だが、その希少性が経済の足かせにもなる。通貨量が少なければ、取引量も当たり前に減る。通貨量が経済規模の可能性を決定する。通貨が少なければ、もっと取引したくてもできない。取引の需要に金や銀の希少性が適切に応えなければ、市場はいたしかたなく縮む。潜在能力をフルに引き出せない。金山や銀山を手に入れた経済圏は活発化し、金や銀が不足した経済圏は失速する。その経済圏の実力に関わらず、経済規模が決定される理不尽が起こる。金や銀を通貨にしていては、経済の活況も運に左右されてしまう。あまりに口惜しすぎる。

そこで紙幣だ。紙幣なら通貨量は人為により自由自在ではないか。足りなくなったら刷ればいいのだ。市場が求める取引の多寡に応じて紙幣を供給できる。鉱山という自然に左右されずに済む。問題はただの紙切れにいかに価値をもたせるか。いや、いかに交換価値に匹敵する取引決済手段としての信用を紙切れに与えるかだ。なにせ紙幣は金貨や銀貨の希少性の弊害を克服するために生み出すのだから、希少性を備えてはいけないのだ。

結論はご存じのように、兌換性による克服だ。約束手形の仕組みを応用し、金兌換の時間差を利用した金兌換券の乱発システム。これにより、紙切れに取引決済手段として交換価値に値する特殊な紙切れであるという「信用」を生み出した。紙幣はただの紙切れとは別個の存在として現象することに成功した。

はじめはこれで良かった。だが金兌換を信用の根っこにおいている以上、信用創造にも限界がある。人々が発行元に不信を感じ、一斉に金兌換を求めたら対応しきれない。金兌換券を発行している銀行同士でネットワークを組んでも限界がある。リスクヘッジのために銀行の銀行たる中央銀行を創ってみても、金や銀といった兌換すべき物に限りがある以上、兌換券の所有者から真の安心は得られない。結局、金や銀の総量に信用創造の多寡が縛られる。本当の意味で希少性を克服できていなかったのだ。

もっと信用創造を可能にするにはどうすればよいのか。経済が世界規模に拡大していく中で、取引量に応じて自由に通貨量を増減させるにはどうすればよいのか。金や銀のような物に縛られていては希少性から脱却できない。物が価値と信用の根っこではダメなのだ。

ここで幸運にも人類は近代国民国家の発達に出会う。近代国民国家という虚像怪獣に。絶対王政が確立する中で生まれた国民という虚像。民族という虚像。絶対的排他的所有という虚像。ゴーイングコンサーンという虚像。子子孫孫にまで受け継がれていく物語と生殖のリアリティを背景にした絶えることない組織の確立。王から国民に主権を移すことで、より強固になる子子孫孫という組織の連続性。つぶれないはずないのに、いつまでも続くという神話をもった近代国民国家が生まれていた。王権に貸し付けてもすぐデフォルトする。しかし、王家の血を存続の軸とするのではなく、国民という良く分からない抽象的存在の血を軸とした国民国家は簡単にはデフォルトできない。いくら負債を抱えても、未来に連綿と続く国民がいる限りデフォルトとは言わせない。そんな組織の性質を金兌換券をばらまく金融機関は目ざとく見抜いた。折しも、国家の富とは金銀財宝でなく労働による生産財だという思想が現れていた。

近代国民国家と独占取引の契約を結ぼう。近代国民国家の国債を一手に引き受けよう。金利を捨象して考えれば、貸し付けても貸し付けてもデフォルトしない取引先。夢のような相手だ。近代国民国家と独占取引すれば、取引先の金融機関もデフォルトしない。なにせ、その財の根源には未来永遠に生殖によって再生産される国民の労働力があるのだ。安心だ。

近代国民国家と独占契約を結ぶ金融機関が発行する金兌換券。近代国民国家から通貨発行権を譲渡された金融機関という権威。金兌換券発行と引き換えに近代国民国家の国債を資産にため込んでいる金融機関という信用。ただの金融機関が発行する金兌換券とは信用が段違いだ。人々はその金融機関が保有する金の総量をあまり気にせず、金兌換券を用いて取引を活発化させた。より大きな信用創造が可能となった。

ここまで金兌換券が取引決済手段として流通すると、もはや金兌換券が持つ兌換性に人々は関心をもたない。どこに持っていこうと金兌換券は他の商品と交換できるからだ。別に金兌換性なんてなくても通貨としての信用を十分に紙幣は獲得していた。金本位制や銀本位制の脱着が自由自在になっていた。国家が背景にいることで十分な信用創造が可能となり、希少性が克服できた。近代国民国家と独占契約を結ぶ金融機関が発行した流動性ある「為替手形」という側面が「金兌換券(約束手形)」という側面よりも紙幣の主要な性質になっていった。中央銀行が国債を対価として中央銀行券を発行(振出)することで、手形の支払人としての義務を振出人たる中央銀行から国民に移転することに成功したのだ。紙幣は特殊な万能債権証書と化した。兌換義務は担保にすぎない。通貨量はもはや人為の下にある。金や銀の量という自然に左右されることはない。めでたしめでたし。

ではなかった。希少性を脱却しているという性質に今度は近代国民国家がほくそ笑んだ。いくらでも国債を引き受けてもらえる。ならば、国家財政は自由自在ではないか。国家権力つまりは正当な暴力を背景にもった組織が財政を自由自在にする。考えるだに恐ろしいことが人類を襲う。国家はえばり散らす。なにせ、金も暴力も自由自在な組織は人類史上はじめてだ。結果としてあらゆるツケが国民に回される。不当に軍備を増強して海外に進出する。国民だけでなく海外にもツケを回す。紙幣に信用があることを利用して、中央銀行を介さず政府紙幣を発行する。軍票を発行する。紙幣から為替手形という性質が抜け落ちる。極端なインフレになる。経済はもう無茶苦茶。政治も無茶苦茶。

これはいけない。近代国民国家と中央銀行の間にきちんと楔を打ち込まなければいけないことに人類は多くの血を流すことで気づいた。中央銀行は国家の言いなりではいけない。国家も中央銀行の言いなりではいけない。国家は中央銀行に通貨発行権をきちんと譲渡する一方で、中央銀行もその私立性や独立性を一定程度縛られなければいけない。互いに権力を縛りあう関係を構築しなければいけなかったのだ。人為の下におかれた通貨発行権は魔物だったのだ。一組織に自由にさせてはいけない代物だったことにようやく我々は気付いた。

紙幣は便利で素晴らしい発明かもしれないが、近代国民国家以上のリヴァイアサンだった。

日銀法改正以来、日本は日銀に通貨発行権を自由にさせすぎたのかもしれない。改正から15年にわたるデフレも、紙幣という魔物の歴史の一端といえるような気がする。今度は中央銀行に通貨発行権を独占させたらどうなるかという悲惨な一例として。いったい何人の人が不当に死んでいったのか…。紙幣に対して思考を停止してはならない。

安倍総理のデフレ脱却作戦。大げさでなく皇国の興廃この一戦にありだ。日本海海戦すら比較にならなほどの勝負時ではないだろうか。今度の日銀総裁には東郷さん以上の覚悟をもって臨んでほしい。

転蛇のタイミングが天国と地獄を分ける。 web拍手 by FC2
posted by あれるげん at 21:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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