2013年05月31日

分けることは分かること

分けることは分かることだ。人は物事を分けなければ分からない。連綿と続く一なる宇宙を分けて分けて分けまくる。腑に落ちるまで分けまくる。分けて腑に落ちるとなぜかスッキリして納得する。分けすぎてわけが分からなくなることもしばしばだ。分けすぎるとまとまりがなくなって非効率になるのだが、なぜか人は分けまくる。これとあれは同じではないと。

おそらく分けて分かるというのは、分けることで効率性が増すというプラグマティズム的な動機からなされていない。分ければ分けるほど、分ける前までは認識することができなかったある現象を捉えられるという経験が、人を分けることへと志向させるのではないだろうか。その現象とは美である。最近4kテレビとやらが出てきたが、テレビというのは画素数を上げれば上げるほど美しい映像が表現できる。同様に、我々の認識力も分けることで画素数?を上げれば上げるほど、現象をより美しく捉えることができるのではないだろうか。腑に落ちるというのは、今まで経験ができなかった美を新しい分け方によって経験できたときにやってくる快なのではなかろうか。

とすると、年齢を重ねるということの最大の魅力は、より多くの分け方を知るということであり、より多くの美を現象から見抜く力を持つということになる。ご高齢の方々の存在価値は、おばあちゃんの知恵袋のような便利な知恵を多く備えていることと考えがちであるが、それは早計な判断だろう。便利な知恵を持たないお年寄りは不要ということになりかねない。より多くの美を見抜く力にお年寄りの価値をみれば、功利性がすべてではないことは容易に理解できる。安倍総理は「美しい国、日本」をスローガンとして掲げていらっしゃるが、それは美しい日本を作るというより、「美しさを知る国、日本」こそ世界一の高齢化社会を抱える国の卓越性であるというメッセージとして読み取るべきではなかろうか。




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2013年05月20日

アレントの自由観と歴史物語

自由とは何か。西洋思想においては自由意志という精神の中に自由の根源があると考えられた。様々な因果に縛られ思い通りにならない現象ではなく、想像や妄想を思いのままに広げられる精神の中に自由をみた。迫害を受け続けたキリスト教の現象忌避的教義を淵源とし、デカルトのコギトエルゴスムがそれを強化した。だがこの精神の自由も神との関係を断って個人そのものの独立を重視するようになると、その自律性に疑問が浮かび上がる。一見思い通りに見える精神の遊びも、つきつめてみると何かしら現象による影響が感じられる。現象と全く無縁な精神運動があるかと問えば、真摯に向き合うほどその自律性には懐疑が投げかけられる。

アレントは精神に自由をみない。現象にこそ自由があるかのような論陣を張る。キリスト教と無縁な古代ギリシアの自由を参照して、現象においても自由が現れうると主張する。古代ギリシアにおいては、個人の自律や独立の優越性を他者に示して称賛されることに自由をみた。因果の流れから解放されることが自由とは限らない。生命の必要から解放され、人々の間で独立自尊を評価されることで自由を確信する文化もあったのだ。できることこそ自由だと。

ただしアレントは優越性を示すという目的に縛られた生き方では可塑性がないことも見抜いていた。古代ギリシアは、現象における目的を重視しすぎて思考を軽視し、思考の人ソクラテスを殺した。それがプラトンを嚆矢とする精神における目的論を導いて西洋思想の伝統を形作り、皮肉にも精神による専制を招いた。だから現象に自由をみつつも、目的論に縛られない自由を認めなければならない。目的ではなく始まりに目を向けよう。現象を始められるという一点に自由をみなければならない。

とはいえ現象における始まりに自由をみることは容易ではない。出生に自由があると言ったって、人間は両親からいわば受動的に生まれるのであって、そこには自律性のかけらもない。アウグスティヌスの影響を強く語るのがアレント解釈者の常だが、出生思想を云々言っても出生が運命づけられていることを語るのみで、個人の自律や独立を引き出せないことはアレント自身が認めている。つまり現象だけでは自由を見抜くことができないのだ。結果として精神にも自由の契機をみる必要が出てくる。ただし、精神だけでは自由を掴まえることはできないので、結局のところ精神と現象の関係に自由をみるという方法が最後の希望となる。

おそらくアレントが注目したのは、現象を始めるということと現象から引きこもるということとが合わせ鏡であるという点だ。現象を始めるためには引きこもる必要があり、引きこもるためには現象を始める必要がある。この現象と精神の間を揺れ動いてブレることができるという点にこそ人間の自由がある。自由であることは必ずしも自律的である必要はない。それは西洋思想の伝統にすぎない。遊びのあること。可塑性があること。空間があること。時間があること。つまり間があること。ここに自由があるとすべきというのがアレントの結論だろう。

アレントは、ソクラテス学派が始めた精神と現象の二分法を解消して、ソクラテス以前の始原論に戻ることでプラトン的製作政治からの脱却を図ったのではない。ソクラテス的二分法において、精神が現象を規定するのでなく、現象が精神を規定するのでもなく、精神と現象の間を揺れ動くことができる点に自由をみた。必然の規定ではなく、偶然の揺れ動きこそ奇蹟であり自由である。それは古代ギリシアの自由とソクラテスの産婆術を和解させることでもあった。アレントの自由においては個人の中で英雄に憧れるペリクレス的市民と懐疑を伴とするソクラテス的市民は同居しうる。精神と現象の間に自由をみれば、精神と現象の両相において複数性をもたらすことが可能となる。むしろ両相が複数であるからこそ、その間を行き来する浮気性な自由が認められるのだ。

アレントは古代ギリシアのポリス論における二分法、つまり公的市民領域と私的家族領域の二分法から自由を引き出したのではない。私的領域から公的領域に飛び出し、他者の前で仮面を被り法的自由を表現することそのものに自由をみたのではない。なぜなら市民の前に現れる自己は意識に現前化しないにも関わらず、現象する仮面の選択を強制されかねないからだ。自己が神々の一員であるかのように英雄化して不死化することにリアリティはない。ギリシアやローマが滅んでからはなおさらである。ではなぜアレントはポリス論を強く論じたのか。それは判断という精神運動の契機を探るためである。自由意志の無謬性を指摘し、精神と現象の間に自由をみるアレントにとって、自由は新たに始めるという現象への渡河つまり精神と現象の間にかかる自由の架け橋がなくてはこの深淵を克服できない。現象することを強制するのでなく、現象へと意志を導くのだ。思考の懐疑によって現象から引きこもる精神を論じることはそれほど困難ではなかったが、精神から現象へ渡河する判断の契機を論じるのはたやすいことではなかったと思われる。なぜなら、西洋思想は魂と精神と意識を明確に分けて考えることを嫌い、快不快に対して反省を加える契機たる精神を魂から分離してこなかったからだ。不幸にもアレントは判断論を完成させる前に他界してしまったが、彼女の著作を渉猟すれば、大まかな流れは見えてくる。ポリス論と判断は深くつながっていることを見抜くのは容易だ。

ポリスとは記憶装置である。遊びのある想像力(感性と知性をつなぐ構想力とは分けるべきだ)を伴った反省的判断力をもって現象の中から英雄や範例を見出す。現象への憧れを生み出す。英雄が次々と現れることで現象に意味が付与されていく。価値が付与されていく。英雄物語が製作され記憶され継承されていく。現象への関心は増大され、意味に溢れ特別な「世界」を作り出す。世界で新しく始めることへと浮気な意志を誘い出す。そんな現象こそアレントのポリスである。

判断は世界を作りポリスを作り、意志を自己の現象へと志向させる。判断力の喪失は世界の喪失であり、現象へと志向する意志の喪失である。ギリシアとローマを失い世界へのリアリティを失ったヨーロッパにおいて判断と意志の喪失は決定的であり、自由は危機に陥った。神への信仰から自由意志を論じたところで、現象への関心はない。現象というカウンターパートを失った精神は懐疑する対象を失い思考を失う。神への信仰と自由意志に自律性はなく可塑性もない。残りうる精神運動は一なる公理から出発して必然の論理に従順に従う推論だけであって、それは思考でも意志でも判断でもない。ローマ後のヨーロッパには必然の推論に基づく現象への暴力が伝統となり、それに懐疑をもたらす思考はない。この推論の無思考性と神の意志(人と人の間でできない無力からくる力への意志)が一体化したのが近代思想であり、一体化により神という重しが外れた推論の暴力は地球を覆い尽くして全体主義、マルクス主義による暴力政治へと帰結した。

判断力を取り戻すべし。現象への渡河を、英雄への憧れを語るべし。その範例物語としてアレントが試みたのが古代ギリシアのポリス論である。範例とは現象への憧れと意味を現すものであって、意志を現象へと引きつけるものである。そっくり真似るものではない。範例をモデルにして世界を製作するのではない。ポリスを範例として現代政治を作り変えるのではもちろんない。現代政治へのヒントにするのでもない。古代ポリス論を参照して熟議デモクラシーや闘技デモクラシーといった公共空間を創るのでもない。判断によって見出される範例や英雄の物語はひとえに現象への意志、世界への意志、始める意志を引き出すための精神と現象の架け橋にすぎない。アレントのポリス論は、現代において英雄を物語ることの重要性を説いているにすぎないのだ。

その英雄とはヘーゲルやマルクスが提出した大きな物語に貢献する英雄ではない。生という始まりと死という終わりをもって語られる一本の線分のごとく独立しつつも紡がれ続ける直線的な(円循環ではない)紀伝体歴史物語の中の英雄たちだ。歴史を編年体で描くことは、そこに登場する先人たちを何かしらの因果の中に組み込む。このような歴史の製作は決して思考や判断の所産ではない。推論の所産としての歴史である。なにも考えていない歴史である。アレントの求める歴史は、英雄ひとりひとりの一生を因果で位置づけることなく、その意味が語られる歴史である。西暦によって整理され過去と現在を因果で紡いでいく歴史は、よく考えればなんと先人たちに失礼な歴史だろう。過去の先人が今生きている現在の人々の手段として語られているに等しい。それだけではない。この歴史は当然に未来の人々のために今の我々を手段として語る物語を政治に持ち込む。これでは我々の生という現象において始める自由を見抜くことは不可能だ。結果として個の尊重は軽んじられる。

アレント思想の解釈に闘技デモクラシーと熟議デモクラシーの相克をみて、その間を縫うような政治の構築を夢想している政治学者の研究に新しさが現れることはない。そこから意味は生まれないし、現象へ意志を誘いだすことにも貢献しない。世界の歴史を編年体で語ることから紀伝体で語ることへの転換を模索した方がよほど自由を生み出すことにつながると思う。また、日々の裁判例を時系列に整理して法を無味乾燥に解釈することから、その裁判に関わった当事者の名をもって伝え紡ぐことへの転換を模索した方がよほど自由を生むと思う。政治体や法はまず創造されて、規定的判断によって運用されるのではない。具体的事件や争いを人々が個々に解決していくなかで、その反省的判断が現れ伝えられることで政治体や法は生まれ出てくるものである。日々において自己に現前する事件と向き合い、解決を模索し、優れた判断を見出し、判断した者の名を語り紡ぐことでしか自由は生まれない。歴史と範例は鳥瞰や類推によって整理構築されるものでなく、語り伝えゆくことで生まれるものである。

言うまでもないことだが、精神と現象の間を揺れ動く自由というのは、精神か現象かを選択する自由ではない。選択は与えられた肢の中で自律的になされるとみなされるものであり、その選択には責任ある意志が伴う。責任あるというためには、人間は善を十分に知っているという前提でもってはじめていえるのであり、その場合は罪だけで足り、許しと罰を必要としない。ナザレのイエスが許しを唱えたのは、人間が真どころか善も知らないからであり、何をなすべきかもわからず右往左往する自由があるからである。揺れ動きというのは思考における一者の中の二者と判断における英雄の間で呆けている意志のはかなさを示すものであり、無知な人間の偶然性によるのである。始めてみないと何も分からない。世界を失い、始める自由さえ知らない現代において、約束を語るのは気が早すぎる。世界がないところでの約束は語られることを知らない。当事者だけの約束にとどまってしまう。自由は伝わらない。自由のために我々が未来に向かって創造すべきは共同体ではなく現象への憧れそして世界への憧れ、つまりは美である。美が次々と現象する文化を担ってこそ、世界を溶かす愛に子を与え、世界への愛へと人々を導く。これがアレント思想の帰結となったであろうことは間違いない。


「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化の敗北でもあった。」 角川源義『角川文庫発刊に際して』より







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2013年05月12日

書評:竹田青嗣、西研『よみがえれ、哲学』NHKブックス

近代哲学は人間の理性を高く評価して、理性をもって絶対的真理に到達することを目指した。その理性絶対主義がヘーゲルに帰着する必然的歴史観を引き出して排他的全体主義による悲劇を招いた。このような近代観がポストモダンによって一般化され現代思想の本流となっている。

本書はこうした近代観に異を唱える。近代は自由に思考する個人が納得して他者と共通了解を得ることを目指したものであって、絶対的普遍性の獲得を目指したのではないとする。キリスト教による世界観が崩れた近世ヨーロッパにおいて、様々な価値観が台頭して争いを生み出した。その争いを何とかして調停しようという血のにじむような思考努力の所産こそ近代哲学だという。自由で自律かつ独立した個人が、考え抜いたあげくにこれしかないと納得して他者との相互了解を結ぶ。この境地を目指すのが近代哲学であって絶対的真理を目指したのではない。これが本書の主張の核だ。

そして、その主張を引っ提げて、ポストモダン思想と分析哲学による近代観をバッサバッサと切っていく。ポストモダンと分析哲学のくどくどした難解さと結局何を言いたいのか分からない消化不良感に辟易した経験のある者にとって、実に爽快な読後感を与えてくれる。面白い。

しかし、一歩引いてみると、本書の批判は当たっているのだろうかと疑問も浮かぶ。本書の主張とポストモダンの主張の核はほとんど同じで、主張の方法の違いに過ぎないのではないか。

絶対的真理はない。もしくは絶対的真理に理性は到達できない。あくまで、ある一定の地域と時代において、人々の間で共通了解を得る世界観を提示することはできるが、その共通了解には常になんらかの構造が潜んでおり、我々を無意識下で規定している。そしてそれはいずれ脱構築されるものだ。とはいえ、相対主義に陥ってすべては虚無だと悲観することはない。なぜなら、少なくとも一定の地域と時代において人々の間で世界観や価値観の共通了解を得ることは可能で、故に個人が互いに自由を承認しあって納得して人生に意味を見出しながら生きる社会を生み出すことは可能だからだ。哲学をはじめあらゆる学は、その境地を目指せばよいのであって、脱構築される運命にあるからといって悲観することはない。むしろ可疑性があるからこそ納得できる。

上記のような考えは、本書が主張する近代観にも、ポストモダン思想にも核として流れていて何ら差異はない。そして、共通了解の確信を生む根拠になった意識下の感覚を探るのが現象学であり、共通了解の中に隠された無意識下の構造を見抜くのが構造主義であり、その構造を脱構築して絶対化を防ぐのがポスト構造主義である。それぞれ手法は違っていても核となる主張は全く同じだ。それぞれ方法論が違うので視点が違っており、ある視点から別の視点を批判しているにすぎない。なぜ視点が違うとこんなにも言論にズレが生じるのか。それは分析哲学が解明する。現象学、ポストモダン、分析哲学はそれぞれが補完関係にある。このように考えると、本書のようなバッサリとした切り方は、余計な誤解を生み、無駄な争いを再燃させる危険があるのではないだろうか。

ポストモダンが批判する近代観が間違っているのではなくて、近代哲学の核の部分にすでに現象学やポストモダンに共通する考え方の萌芽があった。それを見抜いて近代哲学のテキストを再解釈することで現代に蘇らせるべきである。そう主張した方が角が立たずに済むのではないか。そして、なにより近代哲学にはキリスト教の影響が抜け切れておらず、絶対真理への希求と憧れがくすぶっていて、それが全体主義の理論武装を強化したという事実は否定しがたい。それを思想史上にきちんと位置付けることは、とても大切なことのように思う。近代哲学の負の部分はたとえそれがオーバーな表現になったとしても、強調し続けるべきことのように思う。

結局、学問というのは真理を目指すものではなく、共通了解を目指すものであり、言ってしまえば、みんなが仲良く納得して生きていくことを目指しているのだ。物理学や生物学、さらには医学だって同じことだ。病気を治す方法は医術という技術であって、厳密にいえば医学ではない。医学は患者と医者が互いに納得の上で、医者の医療技術を患者に施すための説明理論を構築する。説得力ある医学理論に基づいて、医者が医術を施してはじめて、たとえ治療結果が希望を満たすものではなくても、訴訟トラブルを防ぐことができる。争いを招かずに調停できる。学の目的はこれであって、決して真理の獲得ではないのだ。アリストテレスの以下の言葉はまこと至言である。

「政治学こそあらゆる学問を統括する棟梁的学問(マスターサイエンス)である」

本書は考えるための豊かな知見を与えてくれる良書だ。絶版にすべきではないと思うが・・・。


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posted by あれるげん at 18:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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