2013年12月13日

映画『ハンナ・アーレント』の構成

本日13日をもって岩波ホールでの映画『ハンナ・アーレント』の公開が終了した。連日満員の大好評だったようである。自分が観た日も朝早くから当日券の列ができていて午前中の当日券が買えず、午後のチケットをなんとか取って観たという人気ぶりだった。劇場を新宿シネマカリテ等に広げて公開は続くようである。めでたい。

憲法学者の奥平康弘さんは、岩波ホールが発行する映画プログラムに寄せたエキプ随想において、この映画の構成に違和感を感じたという。本映画の主題は「イェルサレムのアイヒマン」であるのに、なぜハイデガーとの恋愛関係を示唆するシーンや戦後ドイツでの彼との会見シーンを挿入する必要があったのか疑問だという。

しかし、アイヒマンの無思考性を語る上では、アレントの思考への態度を示唆する必要がある。それはハイデガーの思考への態度と表裏の関係にあるので、「アイヒマンの無思考」がテーマのこの作品においては絶対に必要なシーンだったと自分は思う。

ハイデガーにとって人間の思考は存在が現れる場(ダー)だ。人間の思考が時間を開き、存在が現れる場を準備する。死にゆく我々が本来的生を全うしうる意味ある世界を開くのは思考している時だけであり、活動し現象し死を忘れ日常に埋没している時、現存在たる人間は生きていない。

一方で、アレントにとって思考している現在に生の意味はない。思考しているとき、人は人々の間にいないのであり、生きてはいない。思考によって解放された美醜判断とともに現象する意志を抱いて活動してこそ生がある。思考は判断力を腐らせた凡庸な悪を防ぐ力があるが、それだけでは生に意味は生まれない。アレントにとって現象しない思考は存在しているとは言えないのだ。だから戦後の会見シーンでアレントは反省するハイデガーにこう迫るのだ。「なら、なぜ自分の考えを世間に言わないの?」と。

このハイデガーとの思考に対するスタンスの違いがあってはじめてアレントの凄さがフィルムに表現される。家族ともいえるほど親密なクルトやアレントに想いを寄せる同胞ハンスから絶縁をつきつけられても、自分の考えを彼女はしっかりと披歴した。アレントにとって思考は現象させなければ存在しない。最後の教室でのスピーチシーンには、家族や友を失う危険を冒しても言うべきことは言うアレントの強さが見事に表現されているのだ。

悪は無思考であり凡庸である。だからこそ我々は日常において凡庸な悪に加担している。凡庸だからこそ悪はすぐそこにある。そして悪を拒絶することは凡庸ゆえにかくも困難と苦しみを伴う。悪をなさないというのは決して簡単なことではないのだ。この映画は見事にそれを語っている。

是非一度ご見聞あれ。

映画『ハンナ・アーレント』
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/
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posted by あれるげん at 23:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | アレント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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