2014年02月06日

憲法と政治

憲法とは何か。一般的な憲法学の教科書を読むと、この概念を大きく3つに区分している。一つは形式的意味の憲法。成文法や慣習法として形式的に憲法といわれるから憲法なのだという中身が全くない憲法概念だ。二つ目は固有の意味の憲法。統治機関について規定した法こそ憲法であるという概念だ。国家組織の設計図こそ憲法だという主張である。憲法が原初的に保有している意味だから固有と呼ばれる。3つ目が立憲的意味の憲法。古くは原型をマグナ=カルタに遡らせるイングランドびいきな推論もあるが、基本的に近代思想によって持ち込まれた概念で、主権国家の強制力を制限して市民の権利を守るためにこそ憲法は存在するという主張だ。近代社会契約説と親和性が高い。憲法学者は立憲的意味を憲法の中核として据えることの重要性を強調して教科書を編んでいく。

しかし、この3区分には作為的に排除されている4つ目の憲法概念がある。それは国家理念や国家目的を記述する法こそ憲法だという考えだ。国家が何を善しとし何を正義とするかを言葉にして表明した法こそ憲法であるという思想だ。政治的意味の憲法とでもいうべき概念である。日本における最初の憲法たる十七条の憲法はまさにこれだ。これは日本語としての「憲法」だけのことで海外の「constitution」には政治的意味はないのかと問えば、そんなことはなくアメリカ合衆国憲法ですらバリバリに国家理念をうたっている。一般的にいって憲法は国家の方向性を示しているという漠然としたイメージがあると思う。だからはじめて憲法学の教科書をひも解くと必ずなんともいえない違和感に襲われる。憲法学がこの政治的意味を憲法から作為的に外したのは、戦前の教訓から立憲的意味を強調したいがためだろうが、それならばきちんと併記して読者に思考を促すようにすべきではないのか。削除するという判断はあまりに短絡的すぎる。

しかし、憲法学から政治的意味の憲法が排除される理由には、もっと別な何かがあるのかもしれない。それは近代国民国家という枠がそもそも政治的枠組みではなく経済的枠組みに過ぎないというものだ。経済的枠組みを規定する憲法に政治的意味など不要である。国会や行政府や裁判所で行われている判断はあくまで経済的判断であって、政治的判断ではない。経済的に損か得かが判断基準のすべてであって、正義や善などといった言語はそれをオブラートに包み込む建前にすぎなく形式的には議論されてもその実体は全くない。だから政治的意味の憲法など嘘くさくリアリティがない。よって排除される。

かつて政治はそこで生きる意味を担うものだった。政治は「まつりごと」であり、日々の生活ルーチンから抜け出し、神々をまつり、生きる意味を確認する空間が政治空間だった。政治は「politics」であり、人々はポリス内の広場(アゴラ)に集まり、自己の価値観を披歴し称賛し合うことで、生きる勇気を醸成する空間だった。「政治」や「politics」の語源にはそんな先人の政治経験が込められている。

だが近代は生きる意味ではなく、貧困の経験からくる生きる権利を金科玉条にし、政治にパンを求めた。その根拠は古く古代ローマの元老院議員が政治空間への参加資格を求めて市民にパンとサーカスを寄付したことに求められるかもしれない。しかしそれは政治ではなく政治への手段に過ぎないという分別が古代にはあった。しかし近代は「政治」そのものに「経済」が侵入した。政治の議題は生きる意味ではなく生きる方法と手段へと変わっていった。

問題はかつて「政治」を担っていた空間が転じて「経済」を担うことにあるのではない。政治に経済が持ち込まれることで我々は豊かになり貧困は減っていった。それは素晴らしいことだ。むしろ問題は、政治が担っていた生きる意味を探る空間の代替を我々は見つけられずにいることにある。政治が生きる意味を担っていたころは、生きる権利(豊かさ)の暴走に歯止めをかけるのが政治の役割だった。あくなき豊かさへの欲望にアンチテーゼを投げかけるのは政治の役割だった。しかし政治に経済が持ち込まれ、ほぼ同化した現在においては、国家の経済的欲望に歯止めをかける政治はない。「生きる」ことそれだけが絶対正義となりその他の価値観を駆逐していく。豊かに生きるために因果法則を見出す未来への「推論」だけが学問(科学)となり、生きる意味を現在にみて言葉にする「思考」は無駄として学問から排除される。芸術は「生きろ」と叫ぶ映画が商業的にヒットを飛ばし注目を浴び、目の前に広がる現象から生きる価値を拾い上げる詩人の思考した言葉に人々はリアリティを感じない。現代において政治家と呼称される人々の中には、国会で国家理念や目的を議論することを脱兎のごとく嫌い、貧困の存在を高々と掲げ、憲法の立憲的意味ばかりを強調し、わずかに残っている原初的政治議論に蓋をしようとする。それは貧困を絶対正義に掲げた排他的な暴政への道だと気づかない。

先に掲げた憲法の4つの意味は、すべて「かつ」で結んで共存可能である。「または」で結んでどれか一つを選択しなければいけないものではない。国会において憲法の理念をどうしようかという喧々諤々の議論は、わずかに近代国家に残った古代的「政治」である。立憲的意味に固執するのは結構だし大事だが、それは憲法議論において国家理念や国家目標について議論することを排除する理由にはならない。議論から逃げずにむしろ多様な国家理念が議題に上がる国会を目指すことが自由の実現に寄与するように思う。

ところで、憲法改正において国会議員の3分の2以上の賛成が必要という要件を過半数に引き下げるという案についてだが、憲法の条文すべてを一律に同じ改正要件にする必要があるのだろうか。統治機関に関する条文は過半数に下げる一方で、人権規定に関する条文は現行の3分の2以上のままにすることも可能だし、その案ならば96条の改正も容易ではないか。国家理念をうたう前文の改正を過半数に引き下げれば、より柔軟で豊かな政治文化がわずかとはいえ開かれるのではないだろうか。
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posted by あれるげん at 22:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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