2012年08月20日

疑似科学と日本経済

科学と疑似科学の違いは何か。科学は政治的で、疑似科学は宗教的という違いがあるように思う。科学は宇宙が相対的であるという前提に立った上で、様々な学説が対立し、それぞれの理論の美しさや利便性や実証性を争う。美しさとは何かや利便とは何かといったところまで徹底的に争う。このような討論を経た上で、より多くの人々を納得させた理論が真とみなされる。一方、疑似科学は宇宙に絶対性を求める。原発の安全性しかり、食の安全性しかり。絶対神から受けた啓示のごとく、真なる絶対理論を知った者が無知なる者を啓蒙する。議論ではなく説教をする。懐疑ではなく信仰を求める。

このように科学と疑似科学がきちんと分離できるようになったのはごく最近だ。近代科学の祖とされるデカルトは絶対明証性の根拠を探し求めて「考えている」という思考運動の絶対性を発見した。そしてこれを基盤に絶対的公理系の構築に腐心した。アインシュタインも量子論における確率的解釈を受け入れることができず、「神はサイコロを振らない」との述べた。数学界もゲーデルの不完全性定理が出てくるまで自然数論の完全性を立証できると信じていた。近代科学は神の存在証明という宗教的情熱から派生したことにもっと注意を払ってもよいだろう。この歴史的経過が自然科学を政治学の下に置くという古代的学問的態度から目を背けさせた。科学は政治的なもので絶対性から最も距離を置くべきものであることを忘れさせた。科学と疑似科学が紙一重になってしまった。

この近代科学の悪癖が日本経済の長期的停滞を引き起こしたように思う。経済学を政治学から分離することで、経済学派の対立は二者択一論争のまま、もう一歩を踏み出すことができないでいる。経済学においてはケインズ主義かマネタリズムか、古く金融論においては銀行学派か通貨学派かの対立がそれだ。

一方においてはケインズ主義と銀行学派がある。取引社会の活性化がマネーサプライを決めるから中央銀行はその活性度に応じて事後的にベースマネーの供給量を決めればよい。むしろ大事なのは取引社会に需要を創りだして活性化させる財政出動であって、不景気の責任は政府にあるという論理だ。

もう一方にはマネタリズムと通貨学派がある。通貨の流通速度は大きく見ればずっと変わらないから、ベースマネーの供給量が景気不景気を左右する。だから不景気の責任は中央銀行にあって政府にはない。むしろ政府は財政出動を抑えて小さな政府を目指すべきという論理だ。

どちらかの論理が絶対的に正しいのであって、どちらも正しいなどということはあり得ない。永遠に交わることのない対立が続く。形式論理に固執すれば、雪解けが来ないことは明白である。排中律が融和を阻む。しかし、宇宙は相対的であり複雑であり人間は複数であり、結果として視点も複数だ。ケースバイケースでプラグマティックに両理論を併存させて実践していく政治判断が不可欠だ。だから、中央銀行による金融緩和と政府による財政出動の共同実施を徹底的に実行する必要があったのだ。どちらが正しいわけでもなく、どちらが間違っているわけでもない。良いとこどりをして実践してみるという政治判断と説得力ある政治的言動と形式的ではない排中律なき言論が不可欠だったのだ。金融緩和をちょこっとやって景気が少し上向けば中央銀行が引き締め、財政出動をちょっぴりやって景気が少し上向けば財務省が引き締めという中途半端なことを20年もこの国はやり続けた。挙句の果てには財政と金融の分離を何の哲学もなく盲目的に主張し、中央銀行の独立性を高め、金融庁を旧大蔵省から分離するという愚挙を犯した。ケインズもフリードマンも中央銀行に自由裁量を与えるべきでない点においては見解が一致しているというのに。中央銀行の発生史をみれば、近代国家の存立が中央銀行には不可欠だと分かる。だから中央銀行の独立など世迷言であることが分かるはずなのに。西洋近代思想が経済学を政治学から独立させてしまった弊害が、東洋の端っこの日本で烈火のごとく噴出しているとしか思えない。

中央銀行は物価の安定が主目的な組織だ。物が買えなくなるインフレになるくらいならデフレを好む。財務省は国家の金庫番だ。金庫番が無駄遣いを嫌い支出を抑えようと懸命になるのは当たり前だ。無頓着に量的緩和を行う中央銀行や、中身を気にせず大盤振る舞いをする財務省があったらむしろ怖い。組織として引き締め傾向にある彼らを説き伏せ、責任は取るから量的緩和と財政出動を徹底的に実行しろと命令できる政治家や長期政権を育ててこなかったことが日本の低迷の原因だ。それは、政治が経済の上部構造にすぎないと考え、政治の言葉という目に見えないものの力を軽視した唯物論的思想がこの国に蔓延しているから起こったことだ。短絡的にマルクス主義に傾倒し、ロクに学びもせず唯物論的歴史観に染まった団塊世代は猛省をすべきだ。もはや日本は和魂洋才の心意気はなく、洋魂洋才であり、かつその才も一昔前の遅れた才である。たちが悪い。

posted by あれるげん at 17:35 | Comment(0) | TrackBack(1) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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