2013年01月21日

金兌換券思考

かつてブレトンウッズ体制(金本位制)だった時代、ドルは金と兌換できるはずだった。だが、兌換は各国の通貨当局に限定されていて、国民は金兌換をしてもらえなかった。なぜか。考えると中央銀行券の性質が見えてくる。

もともと中央銀行券は一民間金融機関が発行していた金兌換券だ。金貨や金塊を預る代わりに金兌換券を所有者に対して発行していた。商人たちは金貨や金塊で決済するより金兌換券で決済する方が圧倒的に便利だったので、みんな自分の金貨や金塊を金融業者に預けて金兌換券を受け取り、それを決済手段として利用した。ただの金兌換券に流動性が生まれた。

この金兌換券は約束手形に近い。約束手形は振出人と支払人が同一だ。振出人は未来の自分に債務を負わせるために手形を振出す。金融機関は未来において自分自身が金兌換義務を負担することを宣言して金兌換券を振出す。兌換券の所持人は転々とする。まさに約束手形そのものだ。

しかし、金兌換券を発行していた金融機関が近代国家と契約を結ぶと、この紙切れの性質が一変する。近代国家は戦争がしたい。戦費調達のために大量のお金が必要だ。そのために、決済手段として流通していた金兌換券に目をつけた。近代国家の国債を金貨がため込まれている金融機関に引き受けさせ、その対価に金兌換券を発行させた。敗戦によるデフォルトリスクを負担する見返りとして金融機関に国家の通貨発行権を譲渡した。金兌換券は通貨となって国家の戦費を支えた。国債が金融機関を通すことで流動性ある通貨に早変わりだ。金貨ではないが、金貨と交換できる紙切れを通貨とすることで、決済手段としての信用を失うことなく大量の紙幣が発行され、国家の戦費を賄うことに成功した。この国家のお墨付きを得た金兌換券は、もはや約束手形ではない。為替手形にその性質を変えている。

為替手形は振出人と支払人が別人である。もともと振出人は支払人に債権をもっている。とすると振出人は支払人にその債務履行を手形の所持人に対して行うよう指示した手形を振出すことができる。支払人は所持人に債務を履行することで、振出人に対する債務をチャラにしてもらえる。振出人は支払人に対する債権を所持人へ譲渡したに等しい。

さて国家と契約した金融機関は、金兌換券を発行する対価に金貨でなく国債を引き受けている。これは金融機関が国家を介して納税者たる国民を債務者とする債権を獲得したことと実質同じだとみなせる。ならば、この金兌換券は「金融機関が国民に対して有する債権を金兌換券の所持人へ譲渡した為替手形」として発行することができる。金融機関が国家から通貨発行権を譲渡されたことが金融機関の意思を物語る。なにも書かれてないけど支払人は国民なんですよという意思を。

しかも、支払人たる国民は、指示通り金兌換券所持者に対し債務を履行したとしても、よせばいいのに(笑)見返りとして金兌換券を受け取ってしまう。普通の為替手形だったら、もはや何の権利も主張できないただの紙切れであり、元支払人は悪用されないように破り捨てるだけだ。しかし、この金兌換券は国家お墨付きの通貨なのだ。しかも支払人は抽象的で無個性な国民である。国民を支払人とする為替手形として有効性を失うことなく存続する。受け取った時点で支払人たる国民は金兌換券の所持人に早変わりだ。そして元支払人が元所持人に対して行った債務履行は有効な金兌換券をもらうという行為によって相殺されてしまう。だから元支払人が国民として金融機関に負っていた債務は消えることなく残ったままだ。こうして国民が金融機関に負った債務は消えることなく、為替手形モドキの金兌換券は通貨として有効性をもちながら所持人を転々とさせ経済を回す。

では金兌換券の金兌換義務とは一体何なのだろう。なにせこの金兌換券の支払人は国民だ。為替手形モドキなんだから振出人たる金融機関が義務を負うわけない。債務者はあくまで国民である。しかし金兌換券として発行している。ならば考えられる可能性は金兌換義務は担保なんだというしかない。振出人たる金融機関は、この為替手形モドキに信用を付与する物上保証人なのだ。

保証人は連帯保証契約を結ばない限り補充性を有する。自分より先に主債務者に対して履行請求するよう抗弁したり、主債務者の資力を立証してそちらを先に充当するように抗弁して債務履行を逃れることができる。金兌換券の物上保証人たる金融機関も当然抗弁権をもつ。国民に先に請求しろ。国民の資産を先に充当に当てろ。そう抗弁できる立場にあるのだ。

かくして、ブレトンウッズ体制下で、ドルの所持人がFRBにたいして金兌換請求をしても兌換してもらえない理由に到達した。FRBは所持人に対していくらでも抗弁できるのだ。先に国民に請求しろよ。先に国民の資産をもって充当しろよと。

金兌換通貨の兌換性はただの担保にすぎない。付随的権利に過ぎなかった。だから気楽に脱着できるのだ。ニクソンショックのように。一方、国債を対価に金兌換券を発行するという仕組みは排斥できない。国債を保有してこそ中央銀行は国民に支払を指示できるからだ。よく日銀が国債を対価に日銀券を発行する理由について、国債が一番の安全資産だからという言説を聞く。それも理由の一端かもしれないが、中央銀行券の本質をつけてない理由づけだ。国債保有こそ通貨発券銀行としての中央銀行の本質なのだ。

確かに国債を対価に日銀券を発行していない時代もあった。しかしその時の日銀は真の中央銀行でなかったのだ。それは市民法秩序下に通貨を位置づけられていなかったことを意味している。公法を私法で抑え切れていなかったことを意味している。「法の支配」が貫徹できていなかったことを意味している。自由が実現できていなかったことを意味しているのだ。私法秩序下に国家を従わせるために、国家を債権債務関係に巻き込んだ。国債を通貨の合わせ鏡にすることで、公法を私法秩序下に叩き込む土壌を作り上げた。それは皮肉にも国家なくして自由は実現できないことを意味していた。アナーキストにとっては訃報であろう。

一般には中央銀行券は法貨ゆえに通貨なのだと理解されている。日銀法という公法(行政法)によって強制的に通貨となっていると。しかし、それは中央銀行券の一面でしかない。国債を対価に日銀券が発行されている以上、為替手形かつ法貨であることを見抜かないと、現在の紙幣経済を誤って理解することになる。

通貨を貨幣から紙幣に変えた時点で、市場には純粋な個人などいなくなっている。市場のプレイヤーはデフォルト値からして「個人かつ国民」である。まるで光が「粒子かつ波」であるかのごとく、具体と抽象が同居している。法律論から見れば「ミクロ的基礎付け」など夢のまた夢であることが分かる。ミクロ経済学が前提とする純粋な個人など市場には一人もいない。個人は国民という制約の下で、予想通りに不合理に行動する。必要なのは、ミクロ経済学のマクロ的基礎付け、否、経済学の政治学的基礎付け、法学的基礎付けだ。経済学は政治学や法学のはしためであり、独立したディシプリンではあり得ない。さよならマンキュー。さよならルーカス。
posted by あれるげん at 23:57 | Comment(1) | TrackBack(0) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
13世紀のイタリアで、金細工師が貴族の持っている金の預かり証券を発行した。これが
セキュリティ、そしてデリバティブの始まり。やがて金細工師は金の交換要求が10%しかない事に気づき、預かった金の9倍の証券を発行し、金の足りない貴族や商人へ10%で貸し付けた。これがメジチ家などの富の厳選で、もともと金の9倍x10%複利x100年で1万3千倍の金を、金細工師が画像保有することになった。元々無からそれだけの信用が作られた、んだそうです。
Posted by at 2013年09月23日 08:51
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