2013年08月23日

ご皇統とは日本そのもの

女系天皇容認論というのがある。正直言ってさっぱり分からない。特にご皇統の男系保持論に対して男尊女卑だという主張すらある。意味がさっぱり分からない。

ご皇統とは男系で紡いできたものであり、どんなに少なく見積もっても天智天皇から1000年以上にわたってずっと続いてきた伝統だ。個人的には舒明天皇からは確実に紡がれていると思う。もしかしたらもっともっとずーっと長いかもしれない。それを壊すことを容認するという。一体何様のつもりなのだろう。人間の価値観は時代とともに変遷していく。そんな中で1000年以上もご皇統を守り続けてきたというのは奇蹟に等しい。その恐ろしいまでの奇蹟性を女系容認論者は理解しているのだろうか。現代の我々がそれを壊すということの恐ろしさを分かっているのだろうか。

そもそも人間の知恵が理解していることなど、ちっぽけなことでしかない上に、その理解できていることですら、ある視点を偶然的に設定した上でのとりあえずの理解に過ぎない。1000年以上ご皇統が紡がれてきたという一つの確かさがある中で、我々が現代の価値観に縛られた状態でこれを壊してよいと判断する。これはあまりに傲慢すぎる。

また、ちっぽけな知恵をフル稼働させても、やはり女系容認論はおかしいと思う。古代史を学んでみてつくづく感じたのは「ご皇統=日本そのもの」なんだなということだ。「日本」という国号には大陸と我々は違うという意志が込められている。大陸には易姓革命という思想がある。大陸を支配している王朝に徳が失われた場合、新しい徳のある王朝が現れて入れ替わり、王朝の姓が替わる。ゆえに易姓だ。この思想により誰でも大陸に覇を唱えることが可能とされ、下剋上の闘争状態を容易に生み出す。そんな血ぬられた大陸とは一線を画そうという先人の知恵が、男系一本でご皇統を紡ぎ、天皇は姓を名乗らないという仕組みなんだと思う。大陸とは違う独立した世界として「日本」は立ちあげられ、その思想の核は男系でご皇統を紡ぐということに表現されている。これを放棄するということは日本そのものの独立性を放棄することに等しい。

現代の価値観はいつまでも続かない。つまり近代国民国家としての「日本」はそう長くはない。国境を飛び越えるグローバル化が進む中で、下手をすると100年続かないかもしれない。現状はインターナショナル(国際化)などという生易しいものではなく、国境をなくして行こうと突き進んでいるのだ。そんな中で独立した文化圏として日本という枠組みを守っていきたいのだとしたら、ご皇統の1000年以上にわたる伝統の重みなくしては不可能だ。むしろご皇統という具体的伝統が核として存在していることが、他の文化圏とは違う日本という文化圏の保持を容易にしてくれるはずだ。それを積極的に放棄することは決して賢いことではない。愚かすぎると言っていいだろう。

側室制がない中で男系保持は不可能だから、女系を容認すべきという論もおかしい。ご皇統を遡れば、そこに繋がる男系の血統の方々はそれなりにいる。記紀が正しいとすれば、継体天皇は応神天皇まで五代さかのぼってご皇統と繋がるお方だ。そこまでさかのぼっても男系を保持しようとした先人の思いを現代の我々が踏みにじってよいはずはない。継体天皇の話が事実でないとしても、男系でご皇統を紡ぐというルールは何としてでも守るべしという記紀を編纂した人々の思想を重く受け止めるべきだろう。一度俗世間にまみれた方が天皇になることは認められないという主張も聞く。しかしご皇統を男系で紡ぐというルールに優先するルールなど存在しえないのだから、そんな主張は全く理が通らない。たとえ10世代遡っても男系で紡ぐというルールは保持すべきものだと思う。男系で紡がれたご皇統というのは「日本」そのものなのだから。

ご皇統を男系で紡ぐというのは1000年以上も続く伝統であり、その事実の存在は重い。それを覆すという判断は我々には一切許されないと言っていいと思う。今上天皇のご意志ですらそれを曲げることはできない。なぜなら今上天皇は、男系で紡がれたご皇統のルールの上にのってはじめて天皇陛下として存在しうるのだから。言ってみれば、ご皇統とは古代日本版「法の支配」なのだ。そして1000年以上続いている伝統を持つ法の支配である。男系保持か女系容認かは本来議論の余地すらない。それを議論できると思ってしまうこと自体がご皇統と天皇となにより日本という存在について根本的に誤解している証拠だと思う。
タグ:ご皇統
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posted by あれるげん at 20:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月28日

素人的日本古代史序説(笑)

今月はNHKのBS歴史館の古代史特集に触発されたせいで、日本古代史がマイブームになってしまった。せっかく?なので、今考えている素人的妄想古代史観を備忘録的に記録したい。

まず邪馬台国はどこかという話だ。磯田道史先生はBS歴史館の中で、邪馬台国は日本人の心のルーツであり、邪馬台国探しは究極の自分探しだとおっしゃっていた。しかし、自分としては日本人の心のルーツより、日本という国や集合体のルーツはどこかという問いに関心がある。つまりご皇統のルーツは何者であり、天皇とは何かという問いだ。邪馬台国と大和朝廷がつながっていると無邪気に信じることはできないし、大和の大王(オオキミ)と天皇は同系だというのも無邪気に信じられない。だから邪馬台国がどこかという問いには個人的にはあまり関心が持てなかった。

ではご皇統のルーツは何者であり、どこなのかという話だが、これまた学説が百花繚乱状態で要領を得ない。ただ、記紀つまり古事記と日本書紀はかなりいい加減であまり参考にならないというのは間違いなさそうだ。だいたい記紀を編纂した時代の人々の歴史認識なんて、当時あったとされる帝記や旧辞といった史書を含めてほとんど伝聞だから、あまりあてにならないのは当然だ。為政者の正当性を記すために歴史書は創られたから信用ならないという話もよく聞くが、そんなこと以前に当時の人々が過去のことを詳しく知っていたはずがない。それなりに信憑性があるのは、史書を創った時代にお爺さんだった人が生きていた時代までだろう。それですら伝聞なんだけれど、そこまでこだわっていたら歴史なんて形作れない。記紀の編纂を命じたのは天武天皇というから、記紀で信用できるのは天武天皇のお父さんである舒明天皇の時代あたりまでだと思う。それは天皇の漢風諡号を見ても明らかだ。第34代舒明天皇の「舒明」は「明らかに舒する(述べる)」という意味だし、第33代推古天皇の「推古」は「古きを推し量る」という意味だ。だから推古天皇から過去はかなりいい加減ですよと天皇号が教えてくれているようなものだろう。それが証拠に推古天皇は聖徳太子の肝いりで遣隋使を送ったことになっているが、隋書によれば、そのときの倭の大王はアメノタリシヒコという男王だという。隋も倭に裴世清という官僚を送り込んでいるから男王という記述はかなり信憑性があるように思う。記紀と比べて隋書は嘘をつく必要性が全く感じられないからだ。記紀は相当作為的でいい加減である。

とはいっても、火のないところには煙は立たないので、記紀に記された事柄のモデルとなった事実は何かしらあったと思われる。だから素人の妄想的古代史観としては、結局記紀と考古学的物的証拠を手掛かりに、個々の事実を細かく詰めることはあきらめて、かなり巨視的に古代史を把握することで満足するしかない。ああ悲しや。

以上のような視点から、素人的に確度が高いのではないかと思われるご皇統のルーツであるが、今のところ近江の豪族がルーツではないかと考えている。伊吹山で産鉄に成功し、産鉄から製鉄まで製鉄産業の純国産化を果たし、かつ東西交易の結節点である不破の関つまり関ヶ原周辺を抑えた勢力が万世一系の天皇を輩出したのではないだろうか。近江から岐阜に至る地域を制したものが日本を制するのは江戸が開拓される戦国時代まで変わることのない真実だ。地政学的優位性に加え、伊吹山の鉄を握ることができれば、古代においては圧倒的に優勢であったに違いない。記紀すらもその確かさを補強してくれている。継体天皇が近江出身であるという記述。天智天皇や天武天皇の親族に息長や押坂といった伊吹山とゆかりが深い名を持つ人が多いこと。舒明天皇の和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)であること。白村江の敗戦という最大ピンチの時に宮を近江に移しているということ。これらの事実と記述から、天皇を史上はじめて号した天智天皇の血統はその勢力基盤を近江に持っていたとしか考えられない。

おそらく日本古代史の大きな流れは次のような流れだ。まずは大和川水系を水源とした稲作に支えられた集団がその人口と経済力を背景にして西日本に覇を唱える。具体的には北九州を圧して南朝鮮にある鉄資源の流通ルートを抑える。好太王治世の高句麗が南下してきて、鉄資源の確保が危機にさらされたときは大和が中心となって朝鮮に出兵し、高句麗と一戦交えたのは間違いない。その事実が神功皇后神話のモデルだろう。そして帰国の際には南朝鮮にいた華僑系の先進技術者を臣下の形か奴隷にしたのか定かでないが、大量に列島にひきつれてきたに違いない。彼らに難波を開発させたことで、大和川水系だけでなく淀川水系という大河川も人が御せらるようになった。これは東国との交易に高速道路が敷かれたようなものだろう。大和の経済力は格段に増加したに違いない。経済の中心は大和から河内に移って巨大な百舌鳥古墳群を建造できるほどに栄えた。仁徳天皇治世のモデルとなった時代だ。

でも、この難波開発が大和の息の根を止める。淀川水系の交易が活発化することで東西交易の結節点である近江の重要性が一気に増したからだ。皮肉にも近江の豪族は、引き連れてきた華僑系の技術者の力で伊吹山の産鉄に成功して製鉄を純国産化してしまう。製鉄産業と東西交易権益の両方の力を得た豪族が黙っているはずがない。弱り目祟り目で大和は大王位をめぐって血で血を争う内乱状態であったのは雄略天皇やオケとヲケ兄弟の話や武列天皇の極端な悪徳ぶりから見てとれる。大和の内部争いで優位に立つためには近江の新興製鉄豪族の支援が不可欠という構図が出来上がっていたに違いない。大王位という大陸との交易権益を餌にして、一部の大和の豪族が近江の豪族を虎の威を借る狐のごとくオオキミとして迎え入れた。それが継体天皇のモデルだ。あの蘇我氏は近江の大和引き入れにうまく貢献したために、落ち目の葛城氏に代わってのし上がったのだろう。

大和の優位性は稲作に基づく農業力と大陸との交易ブランドで、近江の優位性は製鉄と東西交易権益だ。大和には権威と米があり、近江には武器と東国があった。ちょうど維新における長州と薩摩の関係に近かったのだと思う。はじめは大和の豪族も迎え入れた近江出身大王を上手く手なずける計画だったが、時代の趨勢は近江にあった。大和のいいようにされて黙っているはずもなく牙をむく。それが大化の改新(乙巳の変)でなかろうか。名実ともに倭の指導勢力が大和から近江に移った事件が有名な蘇我入鹿暗殺なのだ。ただ近江勢力も大陸の対唐政策で大失敗する。白村江の敗戦によって再び大和側が盛り返す。近江出身豪族で固めて日本という律令国家を創っていこうという天智系急進派と、大和と上手く連合して新生日本を創っていこうという天武系穏健派に分裂し穏健派が勝利する。それが壬申の乱だ。ただ、この大和の盛り返しも巨視的に見れば一時的なもので、地政学的中心は近江に移っている。この流れには大和も逆らえない。徐々に日本の都は北上していく。藤原京から平城京、そして平安京へと。桓武天皇の時代に近江の目と鼻の先である平安京に遷都し、血統も天武系から天智系に移った時点で大和系豪族の命運は完全に尽きる。天智天皇、いやおそらく舒明天皇を始祖とした万世一系体制が確立して、今日のご皇統を形作るに至る。

以上が個人的妄想を含んだ今のところ自分の中で確からしさが高い日本古代史の流れである。ちなみにヤマトタケルは伊吹山の神に挑んで毒にあたって死んでいる。大和の息の根を止めたのはおれたち伊吹山だ!というメタファーのような気がするのだが…。はたして真偽はいかに?

※補足1※
よく道鏡の皇位簒奪未遂事件において、皇位の正統性を宇佐八幡様にお伺いを立てたことをもってして、ご皇統の祖先は九州から東遷してきた証拠だという説を聞く。しかし、仮に東遷という事実があったとしても、そんなはるか昔のことを奈良時代の人々が明確に知っていたというのはおかしい。思うに、宇佐は一種の大学町のような存在だったのではないだろうか。隋書によれば、裴世清が日本を訪問した時、筑紫より東に秦王国という一種の中国人の国があったという。おそらく交易に従事していた華僑が作った今でいう中華街だ。それが宇佐の原型ではなかろうか。江戸時代における長崎の出島のごとく、最先端の大陸情報は一度宇佐に集まり、必要に応じて瀬戸内を東に流れていたように思う。だから大陸の最先端の政治思想からみて道鏡に皇位を譲ることの正当性を宇佐にいる華僑系知識人に訪ねたというのが実態のように思う。

日本の政治思想を華僑系の知識人が握っているというのは独立した律令国家日本として危機的だ。道鏡事件を経験してはじめてそう気付いたに違いない。平安京に遷都して大和とのしがらみを完全に切った桓武天皇は倭ではなく日本独自の政治思想を確立する人材を育成するために積極的に遣唐使を派遣した。その成果が最澄や空海といった逸材を育て上げたように思う。最澄の比叡山延暦寺は、日本の最高学府の地位、今でいう東大法学部の地位を華僑系の宇佐や大和の仏教寺院から天皇肝いりの日本製仏教寺院へ移すという文化闘争が生み出したもののように思えてならない。

※補足2※
中国において歴史書は、新たに覇権を握った王朝が滅んだ王朝について記述するというのが伝統という。隋書を編纂したのは唐だし、明史を編纂したのは清だ。では、日本書紀という歴史書はいかなる王朝が滅んだゆえに編纂された歴史書なのか。それは大和を中心とした倭という政治体だ。倭が滅んで、近江勢力を中軸に据えた全く新しい近江と大和の連合政治勢力「日本」が、滅んだ倭について編んだ歴史書。それが日本書紀なのだと思う。

※補足3※
筆者がご皇統の始祖を舒明天皇とする根拠は、墳墓である。舒明天皇から墳墓が八角墳になっている。前方後円墳(蘇我と反蘇我の対立から方墳と円墳に分かれた時代も含む)を思想的背景にもつ大和中心の倭から、八角をよしとする仏教的(道教的)思想を背景にもつ近江中心の日本へ、ご皇統が革命的に入れ替わったのだと考える。 web拍手 by FC2
posted by あれるげん at 11:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月25日

チェロキー族

涙の道で有名なチェロキー族。南部の開拓運動によって力で西へ西へとなすすべなく押し出されていったと安易に考えていた。しかしアメリカの法制度をうまく利用し抗った歴史があることを学んだ。

当時のアメリカは州の独立と自由を説く州権派と連邦の統一を重視する連邦派に分かれており、これが後の南北戦争を招く対立なのであるが、チェロキー族は連邦派とうまく連携して、連邦派の人材が多く送り込まれていた合衆国裁判所を通して、自分たちの権利をアメリカ法制度下にうまく位置づけることに成功していたようだ。チェロキー族に不利益をもたらすジョージア州法が違憲であるという合衆国最高裁判決を勝ち取ったりしている。

しかし19世紀のアメリカ最高裁の実質的効力は州権派の前には形骸化することもしばしばだったようで、結局は暴力的になし崩し的にチェロキー族は故郷を奪われた。とはいえ、20世紀の大日本帝国ももう少しアメリカの法の歴史と複雑さをうまく利用していれば、アメリカ世論対策や政治対策と組み合わせて戦争を回避する道をうまく模索できたのかなと思ってしまう。英語が生理的にもう少し日本人になじみやすいものだったならば歴史も変わっていたのだろうか?


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posted by あれるげん at 22:12 | Comment(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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