2012年03月20日

デカルトの新しさ

デカルトは近代哲学の祖といわれる。

なぜか。懐疑の徹底により思考運動の存在確実性を見出したからだ。存在確実な思考運動を基礎にして、存在確実な世界を演繹的に広げていく。新しい学の方法論。思考によって合理的に存在を明証出来るモノだけがその存在を認められる。あらゆる延長するモノは思考に根拠を持たなければならない。信仰に基づく根拠が曖昧な存在論は排斥される。これにより、中世の「普遍形相世界」と「個別質料世界」という古き二分法から脱却を図り、無謬な普遍論争の幕引きに成功した。

結果、あらゆる運動の動因が一元化された。アリストテレスが整理した四動因つまり形相因、質料因、目的因、始動因は単なる「力」に纏め上げられた。ただ思想上で纏め上げただけではない。代数学と幾何学を一緒くたにした解析幾何学を確立することで、四動因だった力を一つのグラフ上に表現する方法をも開発した。これがなければニュートンやライプニッツによる力学の発展もなかっただろうから、人類の知の歴史に対するデカルトの貢献は計り知れないものがある。

だが、本当に動因はひとつでいいのだろうか?動因を一つにすることは世界を単純化することにつながる。常識的に見れば複雑で偶然に満ち奇跡的なことも起きうるこの世界を、数式という一つの手段で語り切ろうとする姿勢が近代科学にはある。この姿勢は近代科学を近代科学たらしめているものだから、譲ることができないものだろう。数式に単純化することで高度な近代技術を身につけ、人類を月まで運んで行ったことは周知の事実なのだ。だがその成果と自信は世界から偶然を排除することにつながった。

今日、物理学は重力、電磁力、弱い相互作用、強い相互作用を一つにまとめ上げる理論を必死に模索している。一つの力に理論化できれば、単純で使い勝手が良く実用的になるのだろうか。次元の数が増えすぎて手に負えなくなってきている印象がある。ここ何十年も科学の先端を走っているのは複雑系科学だ。無数の変数を計算機に叩き込みシミュレーションをしている。物理学者の夢とは裏腹に動因が複数化しているといえる。

哲学的にみても、近代思想が目指した?近代的自我の統覚は崩れている。思考、意志、判断、意識。全てを統覚する超越論的自我を語ることはまだ出来ていない。語るとしても「無」と唱えるのがせいぜいだ。語り得ないものについては沈黙しなければならず、複数性が現代世界の掟となっている。

だが近代もしつこい。抜け穴を見出してもいる。キーは入れ子あるいはメタである。メタ構造を備えた数式は、始まりは単純な数式であるのが、数字を拡大していくと自然現象と見分けがつかない複雑な現象をシミュレーターで引き起こすことができる。このフラクタルは偶然や奇跡をも単純なる一に統合してしまうかのようだ。物理学において次元が増えていくのもむべなることか?あな恐ろしやデカルト!近代はまだ死んでいない。


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posted by あれるげん at 04:24 | Comment(0) | 科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月16日

マイナス×マイナス

マイナス×マイナスはなぜ+か?

気球の方向算が分かりやすい。

・気球の上昇速度(+)×時間の経過(+)=気球の位置(高さあり+)
・気球の下降速度(−)×時間の逆行(−)=気球の位置(高さあり+)

・気球の上昇速度(+)×時間の逆行(−)=気球の位置(高さなし 地下へ?−)
・気球の下降速度(−)×時間の経過(+)=気球の位置(墜落 地下へ?−)

数学とは常識では全く異なると考えられる事柄(運動、時間、空間)を一緒くたにして考えて相関関係を見抜く技術だ。

アインシュタインの相対性理論は時間と空間を同じものとして考えた点に新しさがある。しかしデカルト以降、力学が数学的に考えられている以上、このような考え方が出てくるのは当然の帰結だったといえるかもしれない。

全宇宙は本来一なるものであり、人間はそれを恣意的に分けて分かったつもりになっている。理性は分けることで初めて分かることができる能力といえる。「理」の訓読みは「ことわり」である。このような思想で相対性理論を眺めれば、それは驚くに値しない考え方だ。


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posted by あれるげん at 17:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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