2013年06月16日

憲法改正より民法改正に注視を!

憲法改正論議が活況を呈している。一部の政党は安倍総理の掲げる改憲案が平和や人権を脅かすとして危惧している。しかし憲法改正の動きより密かに進行する民法改正の動きの方が、社会に与える影響は絶大で、人権侵害を引き起こす可能性が大きい。誤解を恐れずに言ってしまえば、憲法は民法のはしために過ぎない(かもしれない)。

一般に憲法は民法より偉いと思われている。民法は憲法に従うものだと。しかし、この理解は自明ではない。まず立憲国家があって、国家が民法を規定(立法)するという形式をとるのはフランスやドイツなど大陸法系の考え方だ。イギリスやアメリカなど英米法系の考え方だと、まず民法があって、そのルールに基づいて社会契約たる憲法が結ばれ、国家が構成される。いわば民法の方が憲法より偉い。国家によって規定される民法典などは英米には存在しない。市民が契約と裁判によって見出してきたルールの積み重ね、つまり判例の集積こそが彼らの民法である。国家ごときが市民社会の法たる民法を変えることはできない。

日本の法体系は大陸法と英米法がごちゃ混ぜだ。民法は大陸法的な明治憲法の下で規定されたが、憲法は敗戦によって英米法的なものに変ってしまっている。だから、民法を大陸法的に考えるのでなく、英米法的に解釈する余地が大いにある。学者の大半は英米法的な考え方がお気に入りだ。国家が規定する民法より、市民が作り上げていく民法の方が自由度が高そうだからだ。日本は形式的には国家によって規定された民法典を持つ。しかし抽象的文言が多く、条文数は1000条ほどと非常に少ない。(独仏は2500条前後)その分だけ判例による解釈で埋める必要があるのだが、そこに英米法的に考える余地が生まれる。

英米法的に日本民法を解釈したいならば、規定されし条文は少なければ少ないほどいい。判例の重要性が増すからだ。訴訟法を改正して、民事裁判にも市民を参加させれば完璧だ。市民で民法を見出すという英米法的市民法の仕組みにより近づく。英米法的な自由に憧れを抱くならば、民法改正は条文数が少なくなる方向へ進むか、民法そのものよりむしろ民事訴訟法の抜本改正を主張すべきはずである。

しかし、英米かぶれの民法学者が提言している今回の民法改正は真逆に進む。条文数は増え、具体的規定が増える。これまで積み重ねてきた判例から、お気に入りの解釈のみを条文に入れ込み、気にいらない判例の効果は遮断する。民法が古くて機能不全に陥りそうだから改正するのではない。経済界や法曹実務界からの改正要請が高まっているわけではない。なのになぜか着々と進む民法改正の下準備。改正理由は、成立から100年が経過してグローバル化に適さない民法を再整備するためだそうだ。民法をより具体的にすることで海外の人にも日本のルールを分かりやすくし、市場参入を促す狙いがあるとのこと。どう考えてもおかしい。グローバル化の中心たるアメリカは民法典そのものがない。それでもアメリカのルールを我々が理解できるのは、アメリカの法学者が、膨大な判例を分析して整理し、リステイトメントという疑似条文集を参考書として編集しているからだ。世界に日本の民法を明示したいならば、日本の法学者が血反吐を吐いて日本版リステイトメントを編集すればよいのであって、日本民法の抽象性に罪はない。東大を中心とした一部の有力?な民法学者が自説解釈を民法に落とし込みたいがための学者の野望としての民法改正といわれても仕方がない。彼らが楽をして自説を敷衍したいから進めている改正論議としか思えない。そのくせ、改正に反対する弁護士の方々に対して、新条文に対応するのが大変だから反対しているのだと稚拙な反論を展開している。あきれる。怠惰なのは改正を進める民法学者の方であることは明らかだ。

民法の安定は近代社会の土台中の土台だ。民法を土台に取引社会のルールは複雑に織り込まれている。それだけではない。決算手段たる紙幣も市民法秩序の産物だ。ゆえに民法は滅多に抜本改正すべきものではない。社会の仕組みを根本的に変えることと民法抜本改正は同義だ。民法を変えると特別法をはじめ取引社会すべてが芋づる式に変わらざるを得ない。社会に不要な混乱を招く。変えるべき時は、革命的変革が社会に必要な時に限る。ヨーロッパで民法改正が頻繁に行われているのは、EUという近代国家を超えた政治的枠組みへと革命的に突き進もうと猪突猛進しているからであって、それが吉となるとは限らないし、日本が真似すべきことでは決してない。(実際ヨーロッパ経済は今、無茶苦茶だ。おそらく復活しない。最大の要因は中央銀行と近代国家の枠組みが一致していないことにあるが、民法の統一化を狙った改正の動きによって取引実務が混乱に陥ることも問題だ。)

民法改正は憲法改正以上に議論が必要な重要法律であるということは強調しても強調しても強調し過ぎることはない。憲法九十六条の改正三分の二要件を二分の一に下げることを憲法の硬性から疑問視する声があるが、民法の影響度を考えると、民法こそ憲法より硬性であるべきと考える。憲法が民法より硬くなければというのはおかしいと思う。憲法が民法より偉いというのは思い込みに過ぎない。一つの法思想に過ぎない。憲法は、近代国家ができることと、できないことを規定しているに過ぎなく、我々一般市民は憲法に一切縛られない。憲法は国家権力を抑制するとても重要な法だが、一般に思われているほど超絶的に偉くはないのである。言ってしまえば、(どんな法思想や政治思想を持つかによるが)民法の方が憲法より偉いのだ。

憲法改正より民法改正により危機意識を持つべきである。






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2012年04月21日

悠香が本当に悪いのか?

昨日、悠香の「茶のしずく石鹸」によって小麦アレルギーになった人々が集団提訴に踏み切った。原告団は、石鹸に含まれている加水分解小麦がアレルギーを引き起こした原因とし、当該石鹸に「欠陥」があったと主張して、石鹸の企画販売を行った株式会社悠香、石鹸を製造した株式会社フェニックス、加水分解小麦末グルパール19Sを製造した株式会社片山化学工業研究所に対して製造物責任法3条を根拠に損害賠償を請求した。

アレルギーに苦しんだ一人として、小麦アレルギーによって地獄の苦しみを味わった人や急激に不便になった食生活でご苦労されている人のことを思うと同情する。訴えたくなる気持ちも分かる。だが、本当に悠香他3社が悪いのだろうか?

自分も米アレルギーだし、強力粉アレルギーだ。パンは3年ほど口にしていない。たとえ小麦アレルギーでなくともマーガリンやショートニングまみれの市販パンなど一生口にするつもりはない。アトピーを食事療法で治して思うことは、そもそも現在市場に流通している米や小麦そのものが、品種改良によって本来人が食べてもよい食材ではなくなっているということだ。おそらく石鹸はきっかけにすぎない。花粉症のきっかけは花粉であるが、真の原因は普段の食生活にある。同様に、今回の石鹸も小麦アレルギーが主因ではない。主因は普段の食生活だ。普段の食生活で体に合わない小麦を取り続けてきた積み重ねがあり、そのうえで加水分解小麦の摂取が契機となって、アレルギー反応を引き起こした。経験というバイアスがかかった推論かもしれないが、「欠陥」があるとしたら小麦そのものに欠陥があるように思う。訴えるべきは小麦農家や品種改良に携わった人々であって悠香ではない。

とはいえ因果関係の立証は困難だ。製造物責任法3条といっても、因果関係の立証責任は原告側にある。民法との違いは「過失」が「欠陥」に変わっただけで、判例史を見ると「過失」要件の客観化が進んでいたから、民法709条を根拠にした場合とたいした違いはないだろう。形式的には多きな違いでも、実質的には裁判所の判断基準の変遷に対応した法改正にすぎないのだから。被害者側は、主観的事実の立証から解放されたとはいえ、客観的注意義務違反と評価できるような事実を立証して、アレルギーによる「損害」と評価できる事実との因果関係を立証しなくてはならない。

因果関係論は近代法の地獄だ。近代はあらゆる存在をエネルギーの因果に還元してしまおうという無謀な挑戦であり、その最前線が因果関係論といえる。思想も科学も現代の掟は複数性にある。しかし法や経済や複雑系以外の科学は今だに近代的考えに固執し、この宇宙から偶然を排除しようと努めている。アレルギーだって一つの因果の流れの結果ではない。あらゆる原因があらゆる因果の流れに乗ってアレルギーという現象を引き起こしているのだ。その主因を特定し損害賠償を請求しようとする法の仕組そのものに無理がある。いや、まだ刑事法ならば法益侵害という結果が完了しているので、結果から時間を遡って主因を特定することに説得力をもたすことはできよう。しかし、民事となると損害が現在進行形である。時間の流れに沿って因果を確定しなければならない宿命を帯びる。複雑に動いている事実を人為で線引きしなければならない上に、常に意思または認識という主観的事情を客観的事情とともに基礎事情にあげて同時に考慮しなければならない。近代思想の核心である全体主義と建前の個人意思主義の相克という問題が一気に吹き出してくる。近代の民事法は近代が覆い隠している嘘が凝縮した思想廃棄物のはきだめだ。

近代民事法の代替案と現代アレルギーを解決する方法論や思考法はきっとリンクしている。文系理系などという分け方が幅を利かせている日本では、この問題に解決をもたらす思想的土壌は皆無といっていい。望みは薄い。文理問わず思考法に何ら差異はないのだ。分ける概念そのものが不毛である。裁判も不毛に帰すに違いない。

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posted by あれるげん at 18:27 | Comment(5) | TrackBack(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月02日

リベラリズム

アメリカ政治哲学はジョン=ロールズによって復権した。ロールズは正義と善は別ものであり、善は人それぞれ多様であるが、正義ならば一なる共通了解が得られるとした。この分類をご都合主義と笑ってはならない。なぜなら、この考え方こそ近代思想の王道であり、日本も導入している近代立憲主義という法理念そのものだからだ。そこに含まれる危険性を冷徹にとらえる必要がある。

なぜ正義は一なるものとして共通了解を得られるのか?それはコギトから演繹的に導出されるからだ。デカルトが発見したコギトは個人の独占物ではなく、神から人間にあまねく付与された神の理性の派出所だ。ある人が理性で演繹的に導き出したことならば、普遍的にすべての人間が導き出すことができる。なぜならコギト(神の理性)は一つだから。それが近代思想である。

この考え方は各個人がそれぞれ経験した特別な事柄をすべて誤謬として切って捨てる。カントは、経験から切り離された純粋理性によって演繹できることだけが正しく、経験による現象世界はすべて誤りであるとした。各個人がそれぞれ保有している善はすべて間違っているという考えが根底にあるのだ。これを見逃してはならない。つまり近代思想は各個人が独自に経験から導き出した善に対する信念を否定しているのだ。リベラリズムは一見すると、各個人が善をもとめて生きる生き方を尊重しているようにみえる。しかし、注意してみると、各個人が掲げる善を根っこではバカにしていることが分かる。現象に対してシニカルで真剣ではない。いってみれば不真面目なのだ。

ヨーロッパ近代思想やアメリカリベラリズム(リバタリアニズムも含めて)が正義とするものは具体的にいえば権利である。コギトは身体を所有している。だからその身体が労働して得た財産は所有できる。これが物権の理論である。また、ある身体のコギトとある身体のコギトが意思の合致をしたら契約が成立して、互いのコギトに責任が生まれその身体を拘束する。これが債権の理論である。権利は突き詰めればこの二つだけである。要は「分離した神の理性同士が意思していることの合致」と「分離した神の理性が所属している身体が労働した結果」の二つだけが正義なのである。この正義だけが法的利益として保護を受けられる。そのほかはすべて誤謬である。守る必要なんてない。そう、個人なんてどこにもない誤った概念だから守る必要なんてないのだ。近代思想は徹頭徹尾、神の理性下の全体主義思想であり個人主義のかけらもない。

ちなみに現代日本においては、個人そのものから派生する権利を人格権として法律構成し守ろうとしている。有名な北方ジャーナル事件を引くまでもなく、この法律構成は私法の大原則から演繹的に導き出すことができない特殊な構成だ。近代法である以上、人格権を保護することは法理論上無理である。実定法で特別に保護をしてあげないと裁判所や法学者が七転八倒することになる。



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posted by あれるげん at 15:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 法律 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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