2012年09月10日

書評:竹田青嗣 超解読! はじめてのフッサール『現象学の理念』 講談社現代新書

一般に「超越」というとカントのいう超越論つまり主観のアプリオリな限界を超越した視点(視座)や存在といった意味がある。たとえ主観を超えても理性が把握できれば「超越論的」であり、理性も及ばないものは「超越的」と呼ぶ。一方で、フッサールのいう「超越」は純粋意識が現象を構成する際に純粋意識を超越(補完)して現象を構成するものという意味がある。フッサールを読む際は超越の意味がカントとは違うということを注意して読まなければいけない。フッサールの超越は方法であり、カントの超越(論)は視点(視座)または存在である。

もちろん二つの超越は無関係ではない。カントのいう超越論的存在(物自体)やハイデガーが求めた「存在」、フッサールのいう「大地」といったものは、純粋意識からの「超越」という「方法」で確信するものであって、それは現象や世界を構成するという「超越」と全く同じ「方法」で確信するものだった。ただ、現象や世界を超越によって確信する方法とはベクトルが違うだけにすぎない。確信する対象が現象か存在かの違いがあるだけだ。だから「超越」に意味の二重性はないと考えても問題はないのかもしれない。(ただし、竹田さんは本書で二つの超越をきちんと分けて考えることを主張されている!というのも、現象に対する確信と存在に対する確信との間には、共通了解の確信が可能か、それともただ個人的確信に留まらざるを得ないかという大きな違いがあるからだ!)「超越(フッサール)」という「方法」で確信する「存在」が「超越論的存在(カント)」である。ただ『理念』においてフッサールは「超越」をカント的意味で用いており、フッサール的意味の「超越」概念は「構成的内在(明証的に構成される自己所与性という意味での内在)」という用語を当てている。そして「構成的内在とは実はカントの言う超越とみなされていたものだったのだ!」という論理の運びになっているからややこしい。

フッサールの現象学は厳密な基礎付けの学というスローガンがあるために、認識の究極的基礎となる存在や地盤といったものを獲得する学という誤解があった。ハイデガーの現象学のおかげで現象学が存在論に曲解されてきた。だが、フッサールはデカルトと同じく明証性(というより共通了解の確信)を獲得するための学の方法論を確立しようと努めたのであり、決して存在論を展開してはいない。そしてハイデガーの存在論もフッサールの方法論によって存在の確信を獲得しているために、ハイデガーはフッサールを全く超え出ていない。フッサールは学の基礎付けに失敗したという一般論は誤りである。他者との共通了解を得ているという確信を得るための方法論としてフッサール現象学は一つの究極点に到達している。

以上は本書から得た私のフッサール現象学理解である。私の読解は誤っているかもしれないし浅いかもしれない。しかし、竹田さんと西さんの「超越」概念に対する正確な把握は、新田氏をはじめとした日本のフッサール読解の誤解を完全に論破しきる力強さを持っているように思う。意識に先立つ根源的存在などフッサールは前提としていない。それは現象と同じく純粋意識からの超越によって確信を得られるものに過ぎなくドクサの枠をでない。より大切なのは、存在は現象(自然科学など)と異なり、共通了解の確信までは得ることができないから、存在の確信について共通了解を得ようとするとスコラ議論になってしまうことに自覚的になることだ。純粋意識という感覚を除けばフッサールはすべてに可疑性を残している。ただ現象に対する共通了解の確信可能性と存在に対する確信可能性という希望とそのための方法を示して。




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2012年03月19日

デカルトとフッサール

デカルトとフッサールの違い

デカルトはありとあらゆる存在について、その真性を疑った。疑って疑い抜いた結果、疑っているという懐疑運動の存在だけは疑えなかった。懐疑しているという理性の運動過程だけは確実に存在している。この確信、明証性から神の善性を合理的に引き出し、確実な延長の認識へと理解を拡大していった。

しかし、よく考えてみたら、徹底した懐疑によって疑いえないものは懐疑運動そのもの以外にもう一つある。それは何かしらを「感じている」「感覚がある」という事実だ。この「感覚」を明証性の基礎に置いてもよさそうなのに、デカルトはあえて「考えている」という運動に基礎を置いた。この選択がデカルトと近代を特徴づけている。

重要なのは、「感覚」は個人的なものである一方、「考える」という運動は人間すべてに共通する普遍的作業とみなしうる点である。デカルトの理性は決して個人主義的なものではない。デカルトにとって、人間理性は神の理性の派出所のようなもので、神から一部を分け与えられたものにすぎない。良識は万人にあまねく付与されており、みんなの共有物なのである。デカルトは個人の自律を唱えるつもりなど全くなかった。ただ確実な認識論を確立したかっただけである。それが学の基礎に「考える」という運動を置き、「感覚」を置かなかった理由である。

では「感覚」を学の基礎においた思想家は誰か。それはフッサールである。フッサールは客観世界の存在についてエポケー(判断停止)することで、「感覚」の存在確実性を浮かび上がらせることに成功した。フッサールの現象学はデカルト懐疑のもう一つの可能性なのだ。「感覚」を基礎に置くということは、その学が個人主義的であることを意味する。フッサールの現象学が独我論だと揶揄され、ハイデガーによって実存主義と親和性を発揮するのは当然の帰結である。

近代が人間中心主義でありデカルトをその嚆矢とするなら、現代は個人中心主義でありフッサールはその嚆矢と評価される人物といえる。






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2012年03月12日

フッサール現象学概略

そもそも西洋哲学は観る学問だった。客観世界をただただ観察して存在の発見に驚く。こんなものがあったのか。あんなことが起きるのか。発見の驚きや喜びが基盤にあった。

しかしガリレオが望遠鏡を通して地動説を立証すると学問に革命が起きる。この立証は決定的だった。なぜならガリレオはただ観ただけではないからだ。望遠鏡を「作って」観たのだ。そうしたら、ただ観た世界と全く逆の世界が発見された。

衝撃だ。キリスト教徒にとって人間は神に似せて創られた存在である。だから人間の肉体感覚には真実を見抜く力が当然に宿っているはずだった。しかし、望遠鏡を使って観ると肉体感覚と真逆の真実が現れた。それは、人間の観る能力はもちろん、その能力を与えた神の善性まで疑わざるを得ない発見だった。キリスト教会がガリレオを異様に敵視した理由はここにある。

そこでデカルト懐疑だ。彼はとにかく観るもの、感じるもののすべてを疑って疑って疑いぬいた。そうしたら、「疑っている」という理性の動きだけは疑いえないことを発見した。理性は確実に存在し、なにより善なる神から分け与えられたすぐれものだと。

ここで重要なのは、理性の確実性の発見はもとより、理性が向かう客観世界の存在をデカルトは露ほども疑っていない点だ。疑いぬいたのは、もっぱら観る「能力」の方であって、観る世界の存在自体は当然のものとして受け入れている。そしてデカルト以後の西洋哲学は確実に存在する主観と当然に存在する客観の一致に悩みに悩むことになる。

この当然の客観世界が初めて疑われたのはニーチェの時代だ。ニーチェはヘーゲルの進歩史観に内在する決定論に対して異議を唱えた。決定論に異議を唱えることは、当然な客観世界の存在に対する疑いにつながった。

ニーチェ以前の哲学は客観世界を観て分析するのが仕事だったといえる。真理に満ちた客観世界は現実世界とは別個に存在していて、我々は現実を観て真なる世界を想起し、まねるだけだというプラトン型。または、真理は現実世界にDNAのように組み込まれているから、現実を観てそれに従って成長していけば、真理にたどりつけるというアリストテレス型。このどちらかに西洋哲学は分類することができた。しかし、ニーチェ以後はそれができない。なにしろ分析すべき対象たる客観世界がないのだから。

対策は大きく3つに分かれた。まず、世界は存在しなくても理性の「運動」が在ることは確実なのだから、その因果の流れを分析して仮の客観世界における仮の利を追求すればよいというプラグマティズム。次に、理性の考える仕組み「論理」を分析すればよいという分析哲学。そして現象学だ。

現象学は客観世界の存在をとりあえずエポケーする。客観世界なんてないと決め付けるのではなく、一時的に判断を停止する。そして、世界があろうとなかろうと、どちらにしても我々がその存在を感覚として感じているという事実は疑っても疑いえないことに注目するのだ。デカルトは感覚の正確性、その真なる世界を見抜く精度を疑った。だが客観世界の存在を一度判断停止とすると、その正確さはどうあれ「感覚がある」ということ自体は確実だという点が浮かび上がってくる。我々の感覚にはあらゆる存在がその存在を主張してくるではないか。それが真実かどうかの判断はとりあえず不要だ。感覚があるという事実自体は確実なのだから。デカルト懐疑で学の基盤とすべきは理性ではなく、この「感覚」ではないか。フッサールはこのように考えた。

この感覚の集まりに立ち向かう意識こそ純粋意識である。純粋意識は、すべてを感じ取らなくても、感じた部分から全体を類推する。顕在している部分から潜在している部分を補って全体へ超越する。この超越する力こそ志向性であり、超越が訪れることこそ直観なのだ。そして超越により確信が訪れた存在の集まりこそ生活世界である。純粋意識に顕在する大地の上に、潜在部分を含んだ生活世界が覆いかぶさるイメージだ。

ニーチェ以後、客観世界を失った西洋哲学は観ることをやめてしまった。「世界を観て考えて」行動していたのに観ることをやめてしまった。その後はただ「考えて」行動することが正義となった。考えて行動して考えて行動して…。まるで自分の精神パターンや考え方を探っているようだ。永遠の自分探し。そこから学べることは理性が「できる」ことだけであって「なぜ生きるのか」「なぜ世界は存在するのか」については何も学べない。

思考は自分の中だけの対話だ。一者の中の二者の対話。「観て」考えることをやめると、ただ「考える」だけだと、ただ自分で自分を見つめるだけになってしまう。自分に何ができるかについては学べるかもしれないが、自分がなぜ生きるかは学べない。だから「観る」ことを忘れてはいけない。これがフッサールのメッセージだと思う。



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