2014年03月02日

貿易赤字とネーミングセンス

日本は貿易赤字国に「転落」したとよく言われる。しかし、貿易赤字国であることと国の繁栄とは全く関係がない。因果関係どころか相関性すらない。アメリカやカナダはずっと貿易赤字国であるが豊かだ。貿易赤字や貿易黒字と国の盛衰は全く関係がない。

日本は加工貿易で外貨を稼いで、その金で食糧やエネルギーを買っている。だから貿易赤字国になると食べていけない。そんな言説がある。全くでたらめだ。日本は別に加工貿易で食べているわけではない。加工貿易で儲かっている企業が多かったというだけに過ぎない。内需がしっかりしていて国内総生産をきちんとはじき出せば、資源がなかろうと、貿易赤字で国が貧しくなったりはしない。海外からきちんと物が買えている。貿易は勝ち負けがあるゼロサムゲームではないからだ。

では、なぜ某有名経済紙でさえ、貿易赤字と日本の衰退を絡めるような言説を垂れ流すのか。経済紙の記者が単に勉強不足というのが最大の理由かもしれないが、「貿易赤字」「貿易黒字」「貿易収支」という概念に対するネーミングセンスにも問題があると思う。

貿易収支というのは一年間における国内と国外で生じた付加価値(もうけ)の流れの決算である。国全体の輸出額(EX)から輸入額(IM)を引いたものである。市場のプレイヤー(個人や企業)が獲得した貿易による付加価値(もうけ)は貿易収支には現れない。貿易黒字は貿易による付加価値(もうけ)を示していないし、貿易赤字も貿易によって損失を出したことを示していない。国と国というマクロの枠組みにおいての貿易(トレード)では付加価値(もうけ)が生じ得ないからだ。日本国内で生じた付加価値が海外に流出した額と日本国外で生じた付加価値が日本国内に流入した額との比較で貿易収支の黒赤が決まる。貿易黒字とは日本国内で生じた付加価値が海外に流出していることを意味するし、貿易赤字とは海外で生じた付加価値が日本国内に流入していることを意味する。貿易黒字は日本国内で生じた付加価値が海外市場でその価値が見出され投資(長期的視野で売買)されていると解釈できるし、貿易赤字は海外で生じた付加価値が日本市場でその価値が見出され投資(長期的視野で売買)されていると解釈できる。「貿易」というより、日本と海外の「トレード」の総決算である。日本国の国内で生じた付加価値と、外国の国内で生じた付加価値のやりとり(投資)の総決算である。

一年間で日本国内で生じる付加価値の総額は国内総生産(GDP)である。GDPを支出面からみると、その用途は消費に回されるか投資に回されるしかない。貿易黒字になるということは、このGDP(付加価値)の一部が国外に投資されることを意味する。日本のGDP(付加価値)が消費(C)と民間投資(I)と公共投資(G)だけでなく、海外に流れちゃっている(EX−IM)のが貿易黒字である。貿易赤字は逆に外国のGDP(付加価値)の一部が日本国内に流入していることを意味する。そのお金で消費(C)が拡大し、C+I+Gの合計がGDPより大きくなる。

上記のような概念の相関性を考えると「貿易収支(international trade balance)」という概念は「国際投資」と呼び変えた方が適切ではないかと思う。貿易赤字というより国際投資が赤字なのだ。貿易黒字なのではなくて国際投資が黒字なのである。「貿易(とりかえる)」という概念では狭すぎて、EX−IMの概念をうまく説明しきれていない。だから誤解を招く言説がでてくる。「トレード」という概念は「貿易」よりはるかに広い。ただ単に現在の利益をもとめて財物をとりかえているのではない。未来においてさらなる豊かさを生み出すためにトレードするのだ。

大切なのは貿易赤字を嘆いて、何が何でも貿易黒字国に返り咲こうとするのではなく、貿易黒字国から貿易赤字国に変化していく日本の実態ををよく観察し、変化の原因を突き詰めて対策をたてていくことだ。そのときに無理に流れに逆らう必要はない。下手に逆らうと無理がたたって病気になる。貿易赤字(国際投資が赤字)でも豊かになる道はいくらでもあるのだから…。というより日本市場(内需)が活発だから貿易赤字になるのであって、どちらかというと赤字の方が実質として豊かのである。


まあ、黒字赤字という呼び方も変えた方がいいかもしれないけれど・・・。


※以下の記事も補完としてご覧ください※
・貿易収支を理解するための架空話
http://judgethinkwill.seesaa.net/article/390421866.html
・貿易赤字「再考」
http://judgethinkwill.seesaa.net/article/390656101.html




タグ:貿易赤字
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posted by あれるげん at 13:18 | Comment(5) | TrackBack(0) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月01日

ビットコイン狂想曲

新時代の通貨を自称していたビットコインでトラブルが発生したようだ。ビットコインの取引サイトを運営するマウントゴックス社のコンピューターがハックされ、大量のコインデータが失われた。マウントゴックス社はサービスを維持して責任を果たすため民事再生法の適用を昨日、東京地裁に申請した。

ビットコインは基軸通貨のドルに成り替わり、安全でフェアな世界通貨となることを目指して設計されたようである。しかし、その夢は叶うまい。コンピュータ取引の不安定さや犯罪の温床になっていることを脇においても、そもそも設計上で、このビットコインは基軸通貨足りえない限界を孕んでいる。

なぜなら、このビットコインは全く希少性を脱却していないからだ。このサービスは通貨総量を人ではなくコンピュータに組み込まれた計算式に任せている。だから通貨の総量が変化しにくい。その希少性が価値を生み出し、通貨として機能する。ゴールドと同じだ。

しかし現在の基軸通貨である中央銀行券は希少性を克服している。ゴールドやシルバーは希少ゆえに価値があった。だが経済が活発になると、その希少性がネックになって取引の拡大を阻害する。その不便性を取り除いたのが中央銀行券の仕組みだ。中央銀行券の価値を支えているのは、希少性ではなく、信用と法的権利性だ。すさまじい流動性をもった特殊な債権証書だ。一種の手形だ。お金そのものに価値があるのでなく、人と人との間にある関係が化体された媒介が現在の通貨だ。だから自由な取引の多寡によって、我々の自由な意思の有無によって、通貨量が変動する。通貨量を直接制御するのは、中央銀行でなく自由市場である。中央銀行が出来ることはせいぜい通貨量の変化を促すことぐらいだ。だから今、日銀は苦しんでいる。チャレンジしている。

ビットコインは取引の需要に応じて、通貨量を調節できなかった中世に戻りたいのだろうか?数式を解くことでビットコインは発掘できるとのことだが、需要が増えれば増えるほど発掘しにくくなるそうである。広まるはずがない。設計思想から間違っている。犯罪の温床になるのがせいぜいだ。

通貨は複雑な自由市場の取引需要に即座に応じられる柔軟性が必要だ。そのためには通貨の価値を通貨そのものでなく、通貨を介して繋がる人と人との関係に置く必要がある。そして初めて自由な市場が開く。コンピューターの計算式のような公理系システムでは自由を生み出す通貨足る資格がない。必然のルール体系下では偶然という自由が生まれる余地がないからだ。ビットコインが通貨になりうるという判断は浅はかな判断であり、その設計思想は幼稚でマッドサイエンス的である。言ってしまえば理系バカである。

価値とは物そのものが保有しているのではない。概念そのものから価値の力は溢れ出てこない。自由と価値は人と人との間に生まれるのである。


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posted by あれるげん at 22:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月06日

憲法と政治

憲法とは何か。一般的な憲法学の教科書を読むと、この概念を大きく3つに区分している。一つは形式的意味の憲法。成文法や慣習法として形式的に憲法といわれるから憲法なのだという中身が全くない憲法概念だ。二つ目は固有の意味の憲法。統治機関について規定した法こそ憲法であるという概念だ。国家組織の設計図こそ憲法だという主張である。憲法が原初的に保有している意味だから固有と呼ばれる。3つ目が立憲的意味の憲法。古くは原型をマグナ=カルタに遡らせるイングランドびいきな推論もあるが、基本的に近代思想によって持ち込まれた概念で、主権国家の強制力を制限して市民の権利を守るためにこそ憲法は存在するという主張だ。近代社会契約説と親和性が高い。憲法学者は立憲的意味を憲法の中核として据えることの重要性を強調して教科書を編んでいく。

しかし、この3区分には作為的に排除されている4つ目の憲法概念がある。それは国家理念や国家目的を記述する法こそ憲法だという考えだ。国家が何を善しとし何を正義とするかを言葉にして表明した法こそ憲法であるという思想だ。政治的意味の憲法とでもいうべき概念である。日本における最初の憲法たる十七条の憲法はまさにこれだ。これは日本語としての「憲法」だけのことで海外の「constitution」には政治的意味はないのかと問えば、そんなことはなくアメリカ合衆国憲法ですらバリバリに国家理念をうたっている。一般的にいって憲法は国家の方向性を示しているという漠然としたイメージがあると思う。だからはじめて憲法学の教科書をひも解くと必ずなんともいえない違和感に襲われる。憲法学がこの政治的意味を憲法から作為的に外したのは、戦前の教訓から立憲的意味を強調したいがためだろうが、それならばきちんと併記して読者に思考を促すようにすべきではないのか。削除するという判断はあまりに短絡的すぎる。

しかし、憲法学から政治的意味の憲法が排除される理由には、もっと別な何かがあるのかもしれない。それは近代国民国家という枠がそもそも政治的枠組みではなく経済的枠組みに過ぎないというものだ。経済的枠組みを規定する憲法に政治的意味など不要である。国会や行政府や裁判所で行われている判断はあくまで経済的判断であって、政治的判断ではない。経済的に損か得かが判断基準のすべてであって、正義や善などといった言語はそれをオブラートに包み込む建前にすぎなく形式的には議論されてもその実体は全くない。だから政治的意味の憲法など嘘くさくリアリティがない。よって排除される。

かつて政治はそこで生きる意味を担うものだった。政治は「まつりごと」であり、日々の生活ルーチンから抜け出し、神々をまつり、生きる意味を確認する空間が政治空間だった。政治は「politics」であり、人々はポリス内の広場(アゴラ)に集まり、自己の価値観を披歴し称賛し合うことで、生きる勇気を醸成する空間だった。「政治」や「politics」の語源にはそんな先人の政治経験が込められている。

だが近代は生きる意味ではなく、貧困の経験からくる生きる権利を金科玉条にし、政治にパンを求めた。その根拠は古く古代ローマの元老院議員が政治空間への参加資格を求めて市民にパンとサーカスを寄付したことに求められるかもしれない。しかしそれは政治ではなく政治への手段に過ぎないという分別が古代にはあった。しかし近代は「政治」そのものに「経済」が侵入した。政治の議題は生きる意味ではなく生きる方法と手段へと変わっていった。

問題はかつて「政治」を担っていた空間が転じて「経済」を担うことにあるのではない。政治に経済が持ち込まれることで我々は豊かになり貧困は減っていった。それは素晴らしいことだ。むしろ問題は、政治が担っていた生きる意味を探る空間の代替を我々は見つけられずにいることにある。政治が生きる意味を担っていたころは、生きる権利(豊かさ)の暴走に歯止めをかけるのが政治の役割だった。あくなき豊かさへの欲望にアンチテーゼを投げかけるのは政治の役割だった。しかし政治に経済が持ち込まれ、ほぼ同化した現在においては、国家の経済的欲望に歯止めをかける政治はない。「生きる」ことそれだけが絶対正義となりその他の価値観を駆逐していく。豊かに生きるために因果法則を見出す未来への「推論」だけが学問(科学)となり、生きる意味を現在にみて言葉にする「思考」は無駄として学問から排除される。芸術は「生きろ」と叫ぶ映画が商業的にヒットを飛ばし注目を浴び、目の前に広がる現象から生きる価値を拾い上げる詩人の思考した言葉に人々はリアリティを感じない。現代において政治家と呼称される人々の中には、国会で国家理念や目的を議論することを脱兎のごとく嫌い、貧困の存在を高々と掲げ、憲法の立憲的意味ばかりを強調し、わずかに残っている原初的政治議論に蓋をしようとする。それは貧困を絶対正義に掲げた排他的な暴政への道だと気づかない。

先に掲げた憲法の4つの意味は、すべて「かつ」で結んで共存可能である。「または」で結んでどれか一つを選択しなければいけないものではない。国会において憲法の理念をどうしようかという喧々諤々の議論は、わずかに近代国家に残った古代的「政治」である。立憲的意味に固執するのは結構だし大事だが、それは憲法議論において国家理念や国家目標について議論することを排除する理由にはならない。議論から逃げずにむしろ多様な国家理念が議題に上がる国会を目指すことが自由の実現に寄与するように思う。

ところで、憲法改正において国会議員の3分の2以上の賛成が必要という要件を過半数に引き下げるという案についてだが、憲法の条文すべてを一律に同じ改正要件にする必要があるのだろうか。統治機関に関する条文は過半数に下げる一方で、人権規定に関する条文は現行の3分の2以上のままにすることも可能だし、その案ならば96条の改正も容易ではないか。国家理念をうたう前文の改正を過半数に引き下げれば、より柔軟で豊かな政治文化がわずかとはいえ開かれるのではないだろうか。
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posted by あれるげん at 22:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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